故森先生に捧ぐ-

一 原野

 北海道オホーツクの空の玄関口である女満別空港を離発着する飛行機の窓から眼下の大地を見下ろすと、まず弓状を描くオホーツク海の海岸線と斜里岳から知床半島への連なりが美しいことを思い知らされるが、次第に広く見ているとその印象はいかにその周辺が広大な丘陵で海岸線沿いに湖沼が点在していることに気づき辿り着くであろう。

 縄文海進が最盛期に近づくにつれ、7000年前頃から旧砂丘の形成が始まり、3000年前頃までにその形成が継続した結果である。
つまり最後の氷河期からの完新世の初期にこの北海道の沿岸部地域に多くの内湾を生じさせたのである。
それらは特徴的な常呂の平野や丘陵、そして網走湖や能取湖といった現在の景観、寒冷地特有の原型を成すものであった。

 人口4万余人の網走市の市街からオホーツク海岸沿いに国道244号線を斜里方面に走ると、JR釧網本線を陸橋で越えたところに藻琴駅という小さなぽつねんとした駅がある。
駅前には小さな寿司屋と商店、そして理髪屋がある程度で、そこから右に折れてまっすぐに続く南への道道102号線を進むと、やがて左側に青色をたたえた水面が現れる。これが藻琴湖である。
 この湖も縄文海進による過程で生まれた小さな落とし子である。
今でも流入する藻琴川からの水流や土砂、オホ-ツク海から底部へ流入する塩水との対流を繰り返し悠久の一瞬の景観をヨシ原をたずさえて見せている。
春浅い4月、晩秋10月には渡りの羽を休める純白な白鳥たちがいるはずである。

 さて、この藻琴湖の畔に立つとゆっくり眺め下ろすように座って見える山が望めることだろう。
なだらかなスカイラインを広げている、これが藻琴山である。

 藻琴(モコト)とは、安政4年(1792年)の松浦武四郎の廻浦日記によれば「モコトウ」と書かれ、小沼の意味であると記されている。
様々な諸説もあり、アイヌ語研究者永田地名解では「モコト=小沼、此辺大沼多し、此沼は小さなるを以て云う」、北海道駅名の起源(昭和25年版)では「ムクトウ(尻の塞がっている沼)の意」、網走市史地名解では「モコルトー(眠っている沼)の意」、北海道駅名の起源(昭和29年版)では、「モコト即ちポ・コッ・ト(子を持つ沼)の意」など、4つもの見解があり、またうち3回参加している知里博士がそれぞれ3つの解を出しているところが興味深い。
いずれにしても、この湖の持つ地理的形態や情景が擬人的に表され、生命の息吹さえ感じられる生き生きとした名を与えられているのである。
  この藻琴湖に注いでいる川が藻琴川であり、眺められる藻琴山を源として藻琴原野が形成されている。
その地名は、かつてニクリバケ(昔は木が生い茂っていたが今はないの意、または「ni(=木)kur(=影)pake(=頭)」)と呼ばれ、藻琴湖上部の地帯から今の東藻琴周辺を指すのである。
  この藻琴原野の最初の測量は明治22年(1889年)に実施され、そのときに現在の「藻琴湖」、「藻琴山」がそれぞれ名付けられたと云う。


 ガサガサと足音がしたとたん、声がした。
「まっちゃん、どうだ?」
ルアーを交換しようとしていた時だった。
滝本が偏光グラスをしたままロッドを片手に持ち、枯れた草の上を歩いてきた。
今にも春の冷たい雨が降り出しそうな空である。
冷たい朝の空気に吐く息も白い。
早朝からぼくたちは藻琴湖の流れ込み付近で雪解水がコーヒー色を彩る水面と対峙していた。今日の釣果はお互いゼロのようである。
 この季節、銀白色のサクラマスが遡上してきているのだ。

「滝本さん、今日は全然ダメだわ。水温が低すぎるしさ」
滝本はぼくの言い分を聞いていないかのように胸ポケットから煙草を出して火をつけていた。
ぼくも同じく煙草に火をつけた。
すでにしわくちゃになりつつあった箱には本数の残りが少ないのか取り出した煙草は少し折れかかっていたから、震える指で両側をつまみ押さえながら丁寧に吸い込んだ。
腹に何も入れていないので、口の中に煙のヤニで膜ができるような感じだったが、早朝の刺激的なニコチンはうまく覚醒させてくれる。
あくびが出たと同時に、酸素が脳に行き渡るような心地がした。
ぼくたちは昨夜バーボンをあけ続け、寝ずにそのままここへやってきていたのだ。
いつもならこの「あわびスプーン」で必ず1匹はヒットさせていた。
もちろんぼくたちがそのルアーに勝手に付けているお気に入りの名である。

 ぼくは続けて弱気に言ってみた。
「滝本さん、最近、警察も見回っているしさ、今日はこの辺で止めようよ」
河川に遡上しているサクラマスを釣ることは御法度である。
滝本はさらに聞いていないかのように、両手を伸ばして大きくあくびをした。
すでに今年5匹をかけている滝本は何もかもどうでも良いようであった。
 滝本とぼくは毎年キープは2本と決めて、春にはこの釣りを楽しんでいた。
鱗がはがれやすい美しい魚体を丁寧にさばいて、冷凍にしておくとたいていビールの旨くなる北の大地の初夏頃まではルイベ(冷凍刺身)として酒の肴に最適だった。

 ぼくは釣れないことから眠気が襲ってきていた。
ルアーを交換してまで、さらにねばる気力も根気も失せていた。
 そして昨夜、酔っていた滝本が云っていた心地よくも不思議な響きを持つその人名を幾度も復唱してみようとした。飲んでいたときの話だから記憶の欠片を探すような作業だったが、大丈夫のようだった。
「ヤイトメチャチャ」

フクジュソウ

二 往年

 滝本はぼくより幾つか年上だ。
 交代制の夜勤も伴う滝本と飲むとたいてい朝まで飲むことが多かった。
滝本もぼくもサシで飲みながら静かに語り合うことが好きだったし、特定の女の子に恵まれないところまで似ていた。
 滝本は山菜採りといった山歩きが得意で、ぼくは登山を趣味としていた。
そして人知れぬ渓流や湖といったお互いの好きな秘密の場所を持っている、そんな2人だからたいていの話題には事欠かないのだった。

  昨夜は4月とは季節の名ばかりで夜半には小雪が舞っていた。
  家にやってきた滝本がいかにもまず聞きたかったのだよというような顔をして聞いてきたのは、今は聞かれたくなかった、やはり女の話題だった。
「まっちゃん、例の女の子、どうした?」
滝本はおどけて笑った。
「いやあ、ぼくには合わなかったよ、もう連絡もしてないんだ」
少し素っ気なく云ってみたが、やはりいつもの癖で頭を掻いていた。
「そっか、またいい女の子いっから大丈夫だあ、うん」
滝本はぼくの気も知らないで、両腕を組んでうんうんと一人納得した後、バーボンの封を切り、トクトクと小気味よい音を出して一人勝手にグラスに注ぎだした。
滝本はずいぶんと男らしい。ぼくは相変わらず煮え切らない男だ。
あれこれとしばらく女の子のたわいない話が続いた。

 次第に酔ってくると、滝本は幾分饒舌となり、いつもの沢の自慢話になる。
別段、ぼくたちは釣った魚の大きさをだんだんと誇示していくわけではなくて、それぞれが体感した沢や湖の美しさを張り合う場合が多い。
「あの渓流の奥、知ってるか?ヤマメがうじゃうじゃだ、なんといってもきれいな沢だもんなあ、うん」
「沢もきれいだけれど、あそこのヤマメのパーマーク(模様)はきれいだあ、ホントよお、まっちゃん」
「ヤマメばっかりなのかい?」
「いや、その少し下からよ、何故かオショロコマがいるんだわ」
「それ珍しいね、滝本さん今度連れてってよ、その沢さ、何回も云ってるけど」
「いいけど、クマさ、いるからな」
滝本はバーボングラスに入った氷を器用にくるんと指で回してグイッとあけた。
  ストーブにかけたやかんがカチカチと沸騰してきたようだった。
 少しお互い沈黙の時間が流れたが、これはいつものことで、流れている音楽の歌詞をかみしめているときなのだ。
「いいな、この曲。ここの詩がいいんだよな」
ぼくも思っていたことをボソッと滝本が言葉にした。
滝本のグラスにバーボンを片手で注いだ。
飼っているネコが何かを想い出したように起きたようだった。

 その滝本も好きだと云う曲を再び頭出してから、ぼくは立ち上がって台所でキュウリを縦切りし、みそとマヨネーズでタレを適当に小皿にクネクネとつくったものを簡単に手に持って、再び滝本の前に落ち着き座りなおした。
「昔の人の話を聞いているとさ、ヤマメなんかもドラム缶で捕れたって云うね。
それがたかだか20年前の話だよ、滝本さん、羨ましいよねえ」
「うらやましいけど、今でもまだそういうところはあるよ。みんな知らないだけでさ。俺が納得できんのは勝手にサケとかを捕れないってことだなあ」
滝本は野性的な勘の鋭い人だ。
「確かに川に秋、あんなにサケやマスがいたら捕りたくなるね、本能だべか?」
「本能でないかい?自分で食う分くらい捕ってもいいべさ、と云っても川さ遡った奴は脂もないからいいけどさ、俺は海で釣った奴を今年も冬葉にするわ」
滝本はやや何かを吐き捨てるように云ったが、滝本がつくっていつもくれる冬葉は確かに旨かった。
「うちの藻琴川はまだマシだべさ、サケたちも天然産卵できるもんね」
ぼくは、少し話を戻すように、そして同意を求めるように云った。
「昔、北海道に住んでいたアイヌの人たちはヨ、川もみんな生き物、神様として扱っていたって云うべ、それが自然からの恵みとして当たり前だべさ」
「そうだよね・・・サケはカムイチェップ、神の魚って大切に崇め呼ばれていたんでしょ?」

 滝本は今時ホントウに心のきれいな人間である。
ときに清濁飲み込めない性質から日常の人間関係で愚痴や涙をこぼすこともある。
滝本は、話を続ける。
「みんな自分たちの生活の関わりとしていたんだ。川は道のない頃には道路だったから狩猟の往来にも使ったし、当然そこではサケたちも捕れたからな。みんな生活に関わっていたから、食糧ひとつ偶然ではなくて与えていただけた命として尊重していたのは、ホントわかるよなあ」
「サケマスの増殖事業って100年以上の歴史があって、そして確かに資源も回復したけれどさ、大きな河川で親魚を一斉に捕獲してさ、それをあちこちの河川のふ化場に受精卵を移送しているんだけれど、それって冒とくだと思わないかい?
効率ばっかりを追っかけてさ、早期後期群ってあるのに人間が働きやすい9月の早期群ばかりで人工受精させてしまうし、それにさ、川にはそれぞれ独特の四季や水温があって、だからこそ今まで同じ川に帰ってきて再生産をサケたちは氷河期以来してきたのにその遺伝子や行動本能ってみなムダってことでしょ?」
ぼくも酔うと訳の分からない現実離れした屁理屈を云うようになる。

 滝本はそんな小難しい話を避け、先ほどの話を続ける。
「まっちゃん、知ってるか?」
「何さ?」
 滝本は次のようなことを話し出した。滝本の口から初めて聞く話である。
当初この藻琴原野の地に明治の末期、本州から入植した人たちが寒さに凍え開墾や農耕がうまく行かず食糧の採り方や保存方法に困っていた時に、助けてくれたのがアイヌのヤイトメチャチャという一人の男だったと云う。
当時みなが怯えるクマを自ら狩猟し、四季の山菜の保存方法、この地での自然の中での生活の知恵、もちろんこの地の地理にも明るく道案内までしてくれたとのことだった。
「ヤイトメチャチャの”チャチャ”ってさ、年輩の人に親しみを込めた意味だよね」
ぼくは奇遇にも同じ名前をつけていた家ネコを優しく撫でながら云った。
「そうだろうね、きっと。ずいぶんと慕われていた人らしいよ」
ぼくはネコを今度は膝に乗せ、さらにそのヤイトメチャチャと云う人のことを知りたくなった。

 この藻琴原野の地に生まれ育った滝本が祖父母などからきちんと伝え聞いてきているのだろうヤイトメチャチャのことについてその他に知っていたのは、彼が北海道日高の出身で、明治の中期の春早くに固雪の上を釧路から峠を越えて歩いてやってきたこと、そして浦士別の神浦で居住していたこと、日本名は佐々木という名だったこと、相撲が強くて「男山」の名がついていて「佐々木ヤイトメ男山チャチャ」と呼ばれていたこと、身長は180cmを越える豊かな体格の持ち主だったこと、勇敢でクマと組み討ちをしたこともあり射止めたクマの数は100頭以上だったということ、住居のそばにイナウサン(幣棚)を設けてたくさんのクマの頭蓋骨を祀っていたこと、狩猟を生業としていたことなどを酔い口調で教えてくれた。

「まっちゃんよオ、これから酔い覚まして、釣りに行くべや」
滝本は、いつものように右腕をくいっと上げて笑って誘って見せてくれた。
 季節は4月下旬、藻琴原野の川にはサクラマスが遡上している頃だった。
まさに身は桜色でバランスのとれた美人であり、この時期秋の産卵に向けて海から北の河川へと遡上を始める。

 ヤイトメチャチャ氏は、藻琴原野の殖民地区画測量隊に加わるなどの多くの功績を残したという。現在は小清水町神浦墓地に埋葬され、神浦の住居跡には「男山伊弥登牟多主命」の碑が建立されている。なお、同氏の名は北海道小清水町史にはイヤトムタと記されている。

 

藻琴峠から見る斜里岳

三 峠より

 東を向いて立っている。
 何もなかった高原の地にこうして観光客がエゾシマリスに手でヒマワリの種を与えている光景を見ているとほんとうにに心から微笑ましくなる。
ソフトクリームの幟は俗々しい。
 ここからでも十分風光明媚なのである。
端正な斜里岳が残雪を抱え天をかざし、オホーツクの平野と森林がすべてが同じこの2つの眼に飛び込んでくる。
眼を右に移せば、眼下に屈斜路湖の東側の湖面の波々がまるで肌のように望め、硫黄山が一際蒼とまだ淡い緑の視界の中で異質な殺風景な色彩を放っているのが手に取るようにわかる。
カムイヌプリ(神の山の意)こと摩周岳が鋭角をのぞかせている。
北の大地の四季の厳しさによりこの地にまっすぐ育つことを許されないエゾマツとダケカンバがところどころに点在している他は、逞しいハイマツとササに覆われ光輝いている。
 湖面を渡り斜面を駆け上ってハイマツの香りをのせてくる風たちが、頬を優しく撫でてゆく。
季節は5月、ウグイスたちが盛んに競うようにさえずっている。


  ここは、ハイランド小清水725。
その名のとおり標高725mであるが、日本アルプス2500m級のハイマツ帯の植生の垂直分布である。
道道網走川湯線、網走支庁と釧路支庁の境界であり、分水嶺に位置していることになる。
人は、そこを今では小清水峠と呼ぶ。
 手向け(たむけ)を語源としているとの説がある峠とは、山間の小さな里に暮らす昔の人が遠くへ往ってしまった人に向けて遠く手を合わせたことからなのであろう。
そして、この峠をあのヤイトメチャチャも春の固雪の上を道なき遙かな頃に往来したのだと想うと胸が熱くなった。

  「私、もう準備できましたよう」
停めた車の脇にザックを置き、足の身支度も終えたクミちゃんが笑っている。
いつの間にかトイレから帰ってきていたらしい。
 クミちゃんはどうしても藻琴山に登って自分の住む村を眺めてみたいんだよう、そして内緒に確認したいことがあるんだようとこの日、初めてここへやってきたのだ。
飲み仲間の娘さんであるため、ぼくが成り行きで案内役を引き受けたのだった。
まだ高校生で、一段と元気の良い純真な女の子である。
「どこから登るのン?」
クミちゃんは愛くるしく首をかしげて尋ねる。
「あそこから登るんだよ。まずは登山届に名前を書いてからね」
「ねえ、あれが頂上なのン?」
ハイマツに一面覆われた斜面のスカイラインのてっぺんをクミちゃんは指さしている。
「あそこは通過点だよ、頂上はまだその先の先!そしてさらにもっと先!」
「がっくん!」と、クミちゃんは今時使わないような言葉で明るくおどけて見せてくれた。
「大丈夫、大丈夫、クミちゃんの足なら、そうだな40分ってとこかな?」
「そっか、その40分が地獄なのねえ」
そんな会話を響かせながら駐車場を登山口へ向けて歩き出した。

 藻琴山への小清水側登山口は、この駐車場の端にあり、路は木製の階段をのぼってハイマツの回廊にやがて迎えられてゆく。のっぺりとした安山岩がまるで自分が庭の主人公のように落ち着いている他は、ところどころの残雪からの水が土を泥と化し、ハイマツの針枯葉が薄汚れて敷き詰められた一本のつづら路である。

 クミちゃんはつるりんと片足を滑らせては、ケラケラと一人で笑っている。
ぼくがちょうど横目に見た「頂上まで1750m」と、ぶら下がっている看板のご丁寧さが恨めしく思ったときだ。これが年齢による感覚差というものなのか。
「うわあ、かわいいー!」
クミちゃんは黄色い声を出している。
幾分陽当たりの良いところには、早咲きのエゾイチゲとミツバオウレンが白く可憐な花をすっとした茎をハイマツの下に立ち上げて一輪ずつ咲かせている。
 クミちゃんは初心者にありがちな普段の歩幅で快適に登りだしていたから、今にも息が上がるだろうと、ぼくは後ろからてくてくとゆっくり付いていっていた。
路はまだ芽吹きさえないダケカンバに囲まれたやや急登になるが、一気に広場へと飛び出る。
かつて小屋のあった場所だが、今ではその基礎部分をかろうじて目で拾える程度である。

 まだ15分しか歩いていないが、クミちゃんが休みたいと云う前に、ぼくはザックを背負ったまま煙草を取り出して一服をつけた。
クミちゃんは所在なく広場をうろうろとした後、屈斜路湖をしきりに眺めつづけはじめたが、次の瞬間にはクミちゃんは女の子らしいリュックから何かお菓子をすでに取り出して口の中に放りこんでいた。
「いい空気ですねー、なんかすっきりします」
「そうかい?」
ぼくはその空気をわざわざ煙草で汚していることが少し情けなくなったりした。
 ぼくらはしばらくその広場にいた。
「知ってますぅ?」
「なにさ?」
「私ね、この山の頂上にある歌碑を知っているんですよぅ」
「頂上に歌碑なんて、あったかなあ?」
ぼくははぐらかすように応えたが、確かに過去の幾度の記憶を辿っても頂上に歌碑はなかったように思えるのだった。歌碑らしきものと云えば、あの石碑のことが思い浮かんだが、たぶんそのことではないだろうナ、心の中で思った。

「私、暗唱してきたの。”湖(うみ)の鷹、樹海の鷹となりにけり”ってね」
クミちゃんはまるで暗唱をほめて欲しいかのようにうれしそうに云ってくれた。
感動的な歌、言葉の持つ魅力、深さとの出会いだった。
ぼくは煙草を吸い殻入れへ念入りに消し込んだ。
「いい歌だね、まさしく藻琴山からの絶景の気高さを表現しているね」
「いいでしょ?だから、その歌碑を見たくて。おばあちゃんが教えてくれたの」
「そうなんだあ」
「そう、おばあちゃんね、いつも眺められるあの藻琴山の頂上にはね、その歌碑があって、そして小さな神社があるんだよ、って教えてくれたの。これが私が山を登りたかった内緒の理由なのね、実はね」
クミちゃんの内緒事というのは、そういうことだったのだ。
しかし、はて、神社も頂上にあったものだろうか、とぼくは10数年前から幾度と登ってきている過去のこの山への自分の記憶がかなり疑わしくなってきた。

 2人がいる広場の隅の枯れ草に南を向いて小さなお地蔵様が佇んでいた。
冬には冷たい雪の下となり、凍える地面に身を置くその姿に心はじんと打たれる。
この山で命を落とした人の還り宿る唯一の場所なものか安全を願う道祖神なのか、ぼくにもクミちゃんにも知る由もなかったが打たれた心は変わりなく、そのまま目を細め、ぼくもさっきクミちゃんが見たように同じくより広がった屈斜路湖を振り返り眺めた。

 クミちゃんは、「レッツ!スポーツ」と印字された飲み物を一口ごくんと飲み、キャップをきゅるっと閉めてから、そのお地蔵様のところに小さなキャンディをそっと置き、しゃがんで手を合わせた。
後ろにひとつ大きく束ねた髪が、陽射しを受けて明るい茶色に一瞬きらめいたようだった。
 ぼくはそのクミちゃんが云う”湖(うみ)の鷹、樹海の鷹となりにけり”という歌碑と、同じく頂上に存在するという神社に心を奪われ、記憶との一致を無性に求めていた。
 頂上へ向けて再び歩き出す準備をうながす動作をした。
「クミちゃん、さあ行こう!」

 

最初の広場(避難小屋跡地)にあるお地蔵様

四 山頂

 ぼくたちは登り始めてきっちり40分に先客のいる頂上へ立っていた。
「こんにちはー!」
「はい、こんにちは、お疲れさまだったね。今日は良いお天気だねえ」
先客の方は慣れたように心地よい挨拶を返してくれた。
 一方、クミちゃんは初めて頂上までやってきた感動と納得のいかない複雑な顔をして、頬の汗をタオルで押すように拭いた。ぼくはバンダナを外した。

 やはりと云っていいものか、ぼくの記憶の一致は的中してしまった。
頂上には歌碑はもちろん、祠どころか神社らしきものもなかったのだ。
 クミちゃんは頂上への最後のずりずりと滑る斜面を懸命に手を宙にひらひらとさせてバランスを取りながら頂上のその碑に真っ先に立ち向かったのだが、そこにはクミちゃんが大好きなおばあちゃんから伝え聞いていた”湖(うみ)の鷹、樹海の鷹となりにけり”の歌は書かれていなかった。
碑の後ろ側もぼくも一緒に添って覗いてみたが何か細かな昔言葉がカタカナと共に刻んであって、首を傾げるクミちゃんにそれは何か人の功績のような意味のような内容のようだよと伝えた。碑には「山中源吉師之碑」と記されていた。
確かにこの狭い頂上にもうそれらしきものはなかった。
人の匂いの残るのものを探しても、数年前に航空写真撮影に使ったのであろうか、対空標識の木杭しかなかった。

 先客の人がリンゴをむいて食べていた。
太陽の光はぼくたちを優しく温めてつづけてくれていた。
羽虫がブーンと音をたてて飛んでいった。

 それにしても一体どういうことなのだろう。
果たしてこの頂上には神社か祠、そして歌碑などがあったのだろうか、とぼくはそのことが自分が今ここに立ってみて、ぼくの癖でひどく気になっていた。
 クミちゃんは少しがっかりしたようではあったが、あの広場から稜線上を歩きまだ裸のミヤマハンノキやダケカンバに囲まれた心地よい回廊の路を、紫陽花のようなオオカメノキの白花や身の丈くらいの満開のチシマザクラを愛でながら、地中から飛びして立ち誇っている勇敢な屏風岩をひょいと越え、そしてこの頂上までやってきたそのことに次第に満心してきている気分になっているようだった。
クミちゃんは元気にずっと意気揚々ケラケラとやってきたのだ。

 そのクミちゃんの初めて立った1000mの地からは、真下に屈斜路湖が大きく大地にはめ込んだ鏡のようにきっちりと蒼面をたたえ、湖の真ん中には中島がどっしりと浮かんでいた。この屈斜路湖ひとつでさえ視界からはみ出してしまう。
釣りでもしているのだろうレジャーボートが白い線を糸のようにつけていた。
それはもしかすると最近手に入れたと云っていた滝本の釣り用ボートかも知れないナと思った。
その右向こうには雄阿寒岳が台形の雄姿を見せ、となりには白煙を上げている雌阿寒岳が少し機嫌が悪そうにどっしりとして望まれた。
その右、つまり西側にはごつごつした美幌峠と、霞んで大雪山までが白く望まれた。

 クミちゃんは屈斜路湖から反対の北の方を振り返り、そして見下ろし眺めた。
「うわっ、うわっ!」
クミちゃんが驚いているのは、東藻琴村の末広地区にある芝桜公園のピンク色に対しての表現のようだった。まさに今、その芝桜が満開を迎え、その開花期間だけで20万人もの観光客の人たちの心をとらえているのだった。
この大地の緑が旺盛に活発に成長している季節に、空気中には命輝く森からフィットンチッドが放出され、遠くの景色はより蒼く霞むのである。そこへ芝桜公園のピンク色はまさしく一種人工的と云えるような色彩を艶やかに広大な風景の一角を演じ、浮き出しているように見えているのである。
広い牧場は新鮮な緑を醸しだし、まだ作付けしたばかりの畑は黒と茶色の土色をだんだらに見せていた。
そしてその向こうにクミちゃんやぼくの住む街並みが懐かしく寄り添っていて、キラキラと小さくまとまって輝いているのだった。
その上を能取湖やオホーツク海の優しい青が空の青と溶け込んで、水平線と空が仲良しになっていた。

 クミちゃんはうまく言葉が見つからないようで、少し滑稽であった。
一通り、クミちゃんがさらに斜里岳や知床連山までを一周ぐるっと眺めてから、ぼくはクミちゃんに景色の覚え方を教えてみた。
「クミちゃん、いいかい?景色の覚えるとっておきの秘訣があるんだよ」
「どうやって?写真を撮るんじゃないのン?」
「まずね、こうして覚えたい景色の方をきちんと向いて立ってごらん」
「うーん、そうだなあ、どっちを向こうかなあ」
クミちゃんはこの360度のパノラマすべてから一方を選択するのに少し困惑している様子であったが、とりあえず自分の村の方向をえいっと見定めたようだ。
「まずはね、その景色をしっかり覚えるように視るんだ」
「うん、わかった」
しばらく凝視していたクミちゃんは、もういいかな、大丈夫だよねというよう
な顔をして笑った。
「それからね、そのまま眼を閉じて瞼の中で想い出してごらん」
「うーん、真ん中辺りは何となく、その左の方はなんか忘れちゃったみたい」
「そうしたらね、また眼を開けて、その忘れちゃったところを確認するように、また視てごらん」
「うん、わかった」
クミちゃんは素直な子だ。
「それを繰り返すんだよ、そうしたらね、ずっとねクミちゃんの眼から今視ている景色は一生消えないよ」
「はーい!、はーい!」
クミちゃんは元気良く片手をあげて返事をした。
クミちゃんの黒くまだあどけなさの残るまんまるい瞳には、緑と蒼たちの風景とその真ん中にピンク色が生まれ始め、やがてみるみると飾られていった。
 クミちゃんはそれから少し不安げな顔をして尋ねる。
「ホントウに大丈夫かなあ、私、今夜お家に帰って寝たら、あしたには忘れちゃっているんじゃないかなあ」
「クミちゃんね、今、もし不安だと思うんだったら、もう一度やってごらん、
 そうしたら、そうだなあ、明後日までは大丈夫だよ」
ぼくはからかって大きく声を出して笑った。

 先客の60代くらいの物静かな男性が、ぼくたちのやりとりの光景を観て微笑んでくれていた。
 湖からの上昇気流にのって空にカラスがまるで鷹のように勇壮に浮かんでいた。
 

 

藻琴山 山頂の碑

五 手帳

 頂上下の広場から群生するチシマザクラの下を花びらをくぐるように抜けて、今度はぼくたちは銀嶺水へとササの中の路を下りていた。
ここからは15分もあれば東藻琴側の登山口にあるその清冽なその水を口に含むことができるはずだ。
そこは八合目にあたるところで、小屋もある。

 

 この日はクミちゃんのお母さんがぼくたちを迎えに来てくれていることになっていて、その足で小清水峠に停めてきたぼくの車を拾う手はずになっていた。

 クミちゃんはてくてくと足を運び、歌をふんふんと口ずさみながらご機嫌よろしく歩いていた。
クミちゃんがご機嫌なのは、さきほど頂上下の広場で広げたお弁当をまるで遠足のようにして楽しく食べたからなのかも知れない。
「どうして外でおにぎりを食べると、こんなにおいしいのン?」と、クミちゃんは眼をくるくるとさせてしきりに尋ねていたのだった。
 この東藻琴側のコースは、登ってきた小清水峠側のコースと違って、大きなダケカンバがどかんどかんと立っていて、広々したササの光景だ。
大きく空に向かっている樹々たちは、それ以上に下へ根を張る苦労があったことだろう。

 ササの刈り分け手入れの行き届いた道ばたの一カ所にコケモモの葉がかたまっていた所で、前をゆくクミちゃんが素っ頓狂な声をあげた。
「何か落ちてるよう、これ」
手にとって見せてくれたのは手帳のようであり、幾分古そうであったが雨などにあたっていない、新しい落とし物のようであった。
見てはイケナイ後ろめたい感じもしたが、中を見ないことには落とし主もわからないナと勝手な判断をする前に、すでにぼくの指はその手帳をめくっていた。


 クミちゃんが後ろ髪を束ねなおし、どれどれと興味津々の顔で覗き込んで身を乗り出してくる。

 中には鉛筆で走り書きされたような小さな文字がつらつらと綴られていた。
『藻琴山は実によい山です。初めて斜里に住んだとき、日の沈むあたりにつつましく霞んでみえるのがそれでしたが、斜里岳があまりにりっぱすぎますので、ひきたたないのは余儀のないことでした。
 ところが浜小清水の原生花園に行きますと、すっかり様子が違います。オホーツク海を背にして、濤沸湖に向かいますと、遠景にきわ立って大きな翼を張った山が藻琴山で、原生花園の重要な景物となっています。いま一つ、屈斜路湖岸、砂湯に行ったときです。湖を隔てて、おおらかな山容を見せているのが藻琴山で、湖上の中島とよい対照をして、屈斜路湖の景色をひきたてます。
 しかし、登るとなるとアプローチの長い案外不便な山で、夏分だけ小清水町からバスが出ていました。』
 ぼくは二息くらいで一気にクミちゃんに読んで聞かせた。
といってもクミちゃんも自分でその太陽の下の文字を眼で追っていたのだが。

「クミちゃん、きっと、これさ、昔から藻琴山を登ってきている人の大切なものだね」
「ねえ、次のページにはなんて書いてあるのン?」
クミちゃんの興味は、ぼくの好奇心と一致し、そろっと次のページをめくった。
『私が登ったのは昭和41年9月4日のことで、夏休みに帰ってきていた娘と2人で出かけました。バスに乗れば至ってぞうさのないことで、終点が八合目ぐらいでしょうか、その駐車場の一隅から屈斜路湖が見渡せるのでした。バスは3時間もそこで待っていてくれているので、その間に頂上まで往復するのです。道は悪い瓜先登りで、すでに咲き始めている秋草を分けてゆくのでした。
(この辺り達筆で読めず)
ゆっくり歩いて一時間ぐらいでしたろう。
 千メートルの頂上です、灌木に囲まれたあまり広くない平地に、石の祠と「山中源吉師之碑」というのが建てられていました、この人が、藻琴山開発の恩人であると記憶しております。』

 クミちゃんとぼくは、眼を合わせた。
「これ、これ、ここに石の祠って書いてあるよう」
「少なくても昭和41年には祠が確かにあったということだよね、これってさ」
「でも、私たちがさっきいた頂上には、なかったよね」
「うん、なかったよね、この山中さんの碑はあったけど」
ぼくたちは小さな驚きの発見をしたかのように、とりあえず大事にその手帳をしまい、クミちゃんのお母さんの待つ登山口、銀嶺水へと春の陽射しを背にうけて急いだ。
 道ばたには、大きなエンレイソウが三方向に花弁を広げていた。
 こちら側でもウグイスたちは盛んにさえずりあっていた。

 

エゾシカ

六 野生

 足を下ろしてゆき次第に登山口が近づくと、人の声がする。
 午後の陽光射すトドマツに囲まれた銀嶺水の砂利の駐車場の広場でクミちゃんのお母さんは待っていた。
いつものかわいらしい帽子をかぶっているから一目でわかる。
幾分、年輩の70を越えるであろう老夫とクミちゃんのお母さんがずいぶんと灰色に朽ちてきた木のベンチに腰を掛けて楽しそうにお話をしていたようだった。

「やあ、クミコ、おかえりなさい!」
クミちゃんのお母さんもクミちゃんと同じく、いや、クミちゃんがお母さんに似たのであろう、明るく屈託のない笑顔で立ち上がって出迎えてくれた。
「この方、紹介するわ、天原さんって云う斜里町から来た人なのよ。クミたちが降りてくるほんの少し前に下山してきたのよ」
「こんにちはー」
クミちゃんとぼくはちょうど重なるような挨拶になってしまった。
その老人は、健康そうに陽にやけた顔に今までの人知れぬ幾重もの苦労のしわをたずさえて、ホエッホエッと優しい眼差しで笑った。
ベンチの横にはその方が今日の登山の杖代わりにしたのであろうストックが一本たてかかっていた。
「お母さんね、ぶらぶらとしながら鳥の声を聞いていたの、そうしたら天原さんが下りてきてね、ここから林道をあの道道まで5kmも歩いて帰るって云うから、それならもう少し待っていて下さい。子どもたちが今に下りてきますから、ご一緒にって強引に誘って云ったのよ」
「すまないねえ」
天原さんは申し訳なさそうに丁寧に会釈をした。

 クミちゃんとぼくは先ほど拾った手帳のこともあったから、少しだけ気持ちに時間が欲しくなり、話好きなクミちゃんのお母さんたちのいるベンチの横から少しの階段を下りた。
こんこんと湧き出す水口の下に置いてある「GODO20」というシールがふやけてはがれかかった、おそらく一杯焼酎の空き瓶であろうその瓶で、ごくごくと喉を鳴らしてその銀嶺水の滴たちの塊を飲み干した。
クミちゃんは冷たいね、冷たいねと云いながら手をつけては浸して遊んでいる。
 もう一杯喉を潤してから、訳ありなぼくたちは小さな声でひそひそと会話した。
「クミちゃん、あの手帳、あの人のものだよね、きっとさ」
「私もそう思うな、返してあげましょうよ、ね?」
「うん、そうだね」
「でも、石の祠のことは訊けないよね、だって中を読んだことがバレちゃうから」
「ああ、そうか、そうだよね」
クミちゃんは気遣いのうまい機転の利く子だ。
ぼくたちは、その水場で少ししゃがんでいた姿勢だったせいか、太股と膝が筋肉痛みたいにじーんとなって少しヨレヨレとしたが、クミちゃんはもういなかった。
「はい、これ、おじさんのものでしょ?」
階段を駆け上がったクミちゃんが元気良く両手でその手帳を天原さんの前に差し出していた。
「あれまあ、どうして?落としちまっていたのかい?」
「途中に落ちていたんです」
ぼくはやや取りつくろうように側から補足した。
「ふぇ、ありがとう。大切な手帳なのだよ、私にとって、本当にありがとう」
本当に心から一人の老人の大切な唯一の人生がつまったもののようだった。

 クミちゃんのお母さんは車の窓を閉め切って停めていたのか、乗り込むとムンとしたサウナのような熱気が襲ってきたが、ギーッギュルギュルンとエンジンをかけ、窓を開けてゴトゴトと林道をゆっくり走り出すと、心地よい風が登山後の気持ちをひたひたとぼくを満心させていった。
クミちゃんに何事の事故もケガもなく良かったなあ、と内心ホッとした。
「天原さんね、私に藻琴山のいろんなことを教えてくれたのよ、特に昔の名前なんかが、とってもおもしろかったわ」
カーブが車の前に現れるたびにハンドルを軽快に回しながら、クミちゃんのお母さんは後部座席に座るぼくたちを振り返って愛想良く云った。
天原さんは何となく照れくさそうに助手席にちょこねんと小さく座っている。
「すまないねえ」
まだ天原さんはその小さな体全体で恐縮しているようだ。
ゴツンガツンと走る車の底に石が当たる賑やかな音たちがぼくたちのお尻を驚かせながら、クミちゃんのお母さんは天原さんから聞いたことを一字一句間違えないように、まるで先生の前で回答する生徒のように自信と不安が入り交じったような、でも自信がそれを後押しするような口調で嬉しそうに教えてくれた。

 昔まだ藻琴山という名がない頃、釧路アイヌからは「トエトクシペ”湖の・奥に・いる・者(山、神様)”」、網走浦士別アイヌからは「ウライウシヌプリ=浦士別(川)の山」、女満別アイヌからは「メムヤンベツヌプリ(清水が湧いている泉の先の山)」、などとそれぞれの生活の場から呼ばれていたらしい。
 これだけでも十分、いかに藻琴山が道東の各方面から望められ、往年に暮らしていた人たちが身近な川や湖と藻琴山が仲良く一緒に慕われていたかがわかったような気がした。
  助手席の天原さんが、忘れとったわいと想い出したかのように付け加えた。
「そうそう、さらに美幌町古梅アイヌからは「ツクショッペヌプリ(アメマスの多くいる川の先にある山)とも呼ばれていたらしい、うんうん、、、」
ちょっとぼくたちとの空気に気持ちも和らいだのか、ちょうどその地点を過ぎたからなのか、天原さんは続けて言葉を柔らかく発しだした。
クミちゃんのお母さんが合いの手を入れて、天原さんの話をうながしてくれた。

「おうおう、この見上げ岩、懐かしいなあ。。。昔はよくここにも高山植物が咲き乱れていたんだが。。。今はどうかねえ、、、」
「この林道を歩くと野鳥たちがたくさん出迎えてくれたよ。この山は昔から野鳥の宝庫だよ、特にウグイスが多いんじゃよ。口の悪い私の山仲間なんかは藻琴山のことをウグイス山だなんて冷やかして云っていたねえ。あれはいつだっか、7月頃だったかな、昭和の確か50年過ぎだな、うん、ギンザンマシコという珍しい高山で繁殖する野鳥を私の友人が初めて大雪山でその繁殖を確認したときだったから、その頃にこの藻琴山でそのギンザンマシコという鳥の群を見たことがあったよ、あれはちょうど移動の途中だったのかねえ、きっとこの山に寄ったんだろうねえ、特別天然記念物になっているクマゲラも、ほら、こっちの沢一帯にはいつもいたもんだよ、真っ黒で大きくてね、出会ってはいつもあいつらとビックリしてもんだなあ、、、」

 そこで、林道は過去の国設スキー場とぶつかる6合目で大きく右にカーブした。
 天原さんは助手席に持ち込んだ愛用らしきストックの柄を撫でながら昔を懐かしんでいるような雰囲気になったので、ぼくたちは少し口にチャックをした。
本当はクミちゃんが今日の山の出来事をお母さんに話したくてうずうずしているのは隣のぼくにもそわそわとしている姿から伝わってきた。
もしかしたら、またトイレなのかなとチラッと心配もしたが、黙っていた。

 やがて林道も終わりに近づき、優しく草の輝く牧草地が樹林の間から望める頃、車は停まる。
ここに牧場の柵のようなゲートがあり、一度車を降りて柵の扉を開け、再び車を進めてから、閉めなければならない。
「あれまあ、こんな柵はいつできたものかねえ」
天原さんはここ最近の4~5年、この藻琴山のこの林道に来ていないようだ。
「これはエゾシカの侵入防止フェンスですよ。津別町、美幌町からこの東藻琴、そして小清水町、清里町までずっとこの柵はあるんですよ。農作物の被害対策ですね、冬にはエゾシカたちは釧路側、阿寒方面で越冬をするから、もうこちらのオホーツクの網走側にはほとんど来られなくなったんですよ」
ぼくは、たまたま仕事柄、知っていたことをごく簡単に説明をした。
「エゾシカたちはもう、ずっと本能や教わり培ってきた四季ごとに生きてゆく大切な場所へ往き来ができないんだねえ」
身の丈以上もある頑丈なネットと杭が林道の両脇の森林まで続いていることを眺めた後に天原さんがそうつぶやいた瞬間、ぼくの心は何かが弾けたようにあの春早い固雪の上を豊かな体格で懸命に釧路側からこの山の峠をはるばる越えてやってきたという滝本からそのことを教わったヤイトメチャチャ氏のことが強烈的に想え、エゾシカたちの姿とも重なったのだった。

 

ギンザンマシコ

七 句碑

 ぼくたちの車が道道102号線に飛びでた。
 快適なアスファルト道である。
天原さんもそのまま小清水峠の駐車場までゆくことになった。
本当のところを訊くと、ぼくたちと同じく峠から登って銀嶺水に下り、車を回収したかったようだったのだ。天原さんは遠慮深い。
 風が心地よく、入ってくる。
ぼくは無造作にポケットを探っていた。
煙草を吸いたいのだが、あいにくトランクに積み込んだザックの中に入れてしまっていたことに気づき、しばしの我慢をぼくはすることになった。
隣のクミちゃんは少し疲れたのか、今にも首が折れそうな格好で頭をぶらりんとさせてコックリしだしていた。

 峠へ向けて走っていると阿寒国立公園と看板が現れ、右側に続いていた電柱や電線が一気にそこから地球を突き刺さってくぐるように地下に埋没して消え、一段と北国の針広混交林の景観が壮大に広々と映るのだった。
 その間、天原さんは冬の藻琴山の話をしてくれた。
おそらく昭和40年代頃の話のようだが、その当時では夏山で年間3万5千人、なんと冬にも1万5千人の登山客、スキー客があったらしい。
冬山としての藻琴山は、昭和36年に国設スキー場の指定を受けた道東唯一のスキー場だったのだそうだ。まさしく知る人ぞ知ることである。斜面が緩やかで、特に雪質が良くて、平均斜度が20度、樹氷帯を滑る快感はこたえられなかったと云う。
確かに今でも藻琴山は冬山の登山対象になっているけれど、今のそれの多くは峠からや峠手前の小清水高原キャンプ場からの沢を利用する登山客が週末に数パーティといったところか。過去にいかに藻琴山がスキー場として多くの人たちを楽しませてくれたのか頭が下がる想いだ。
それからぼくもお返しにと云っては何だが、少し前まで国設スキー場を利用してダウンヒルスキー大会があったこと、その国設スキー場の指定も解除になるんですよと天原さんに伝えた。今の藻琴山の冬山登山のことについても会話した。
クミちゃんのお母さんが冬山登山だなんて危ないわよねえとハンドルを握りながら真っ直ぐ前を見てため息まじりに云った。

 ゆく先の道道の向こう先が空になっていきぐんぐん近づきだすと、もうそこは峠だった。
右折して駐車場へのくねくね道を進みだすと、ゴンとクミちゃんは窓に頭をぶつけて起きあがった。いててと頭を押さえるクミちゃんの向こうに法面の陰に残雪が佇んでいるのが窓から見えた。
 あともう一つのカーブで駐車場というところの手前でぼくたちが車の中で仲良くみんな一緒に左側に力をうけていたとき、天原さんがここで停めて欲しいと云った。
「どうもありがとう、わたしはここで降りますから、今日は本当にあいすいません」
天原さんは丁寧にお辞儀をし、ゆっくりとストックから順に車を降りだした。
「駐車場までもう少しですよう、天原さん」
クミちゃんのお母さんが止めようとしたが、天原さんは最初からそういうことを決めていたようだ。
「ここで佇むのがいつも好きなんですよ、ホエッホエッ」
ホエッホエッっと笑う天原さんがぼくたちは自然に好きになっていた。
 天原さんは何もないこのカーブ地点で、法面の上からハイマツがのぞき、枯れ草とササだけの道ばたの側溝をぴょんとまたいだ。

 一台の家族連れのワゴン車がうおんと力がなさそうに通り過ぎていった。
「あれ、なんか書いてあるよう、うまく読めないけれど”なんかのみち”って」
クミちゃんが見つけなければ、実に目立たない看板がそこにあった。
天原さんはすでにそのササに囲まれた径を進んでいっていたので、クミちゃんとぼくも急いで天原さんの背中の後を追った。
 ほんの30mほど走ったら、そこに古ぼけた石が苔と共に静かに時間を止めて建っていて、天原さんが沈黙して佇んでいた。

「天原さん、これ、もしかして歌碑ですか?」
ぼくは、少し興奮してそう尋ねた。
「そうだよ、正確には句碑じゃな、唐笠何蝶さんという歌人がこの藻琴山の絶景を詠んだ句碑じゃよ」
天原さんはその句碑のたたずまいのように静かに応えた。
「もしかして、湖(うみ)の鷹 樹海の鷹となりにけりって書いてあるんですかあ?」
クミちゃんはびっくりしたような声をだした。
天原さんは目をまんまるくして、あれまあ良く知っているのう、とクミちゃんを眩しそうに振り返りうれしそうに眺め、またホエッホエッと笑ってくれた。
昭和31年9月30日に除幕された藻琴山の大切な句碑じゃよ、と天原さんは優しく教えてくれた。

 クミちゃんとぼくは目を合わせて、うれしそうに笑った。
クミちゃんがおばあちゃんから聞き伝えられ、ぼくたちが気になって探していた歌碑は、あの1000mの頂上にではなくて、こんな道路の側に人目をはばかるようにひっそりと存在していたのだ。
こんなところにあったのだ。
天原さんはそんなぼくたちを不思議そうに眺めていた。
 あのう、と、ぼくはその勢いで尋ねてみた。
「あのう、天原さん、藻琴山の頂上に神社か祠があるのをご存じですか?」
 ガサッとどこかでエゾシマリスが近くで駆けだしたような気配がした。

 

句碑

八 博愛

 北の大地にようやく訪れた爽やかな初夏を感じている。
青空を仰ぎそびえる3本の柏の古木や楡の大木の葉々から陽射しはキラキラとこぼれ、風は語りかけるようにまさにそよそよと頬を撫で、Tシャツの袖口の中を遊んでゆく。
人口10余万人の北見市の都会的な街並みがまた違うキラキラをもって一望できる高台の場所に立っている。
エゾハルゼミが盛んに緑陰を揺らすようにジーオジ、ジジジ・・・ジと盛んに鳴き合っている。

  かつて野付牛(のつけうし、ヌッケウシ”野の端”の意)と呼ばれたこの北見市一帯は、悠久なる大雪山を源とする常呂川やその支流の合流点として培いあげられ、広大肥沃な平野は東洋一のハッカ産地でもあった。
 スイスの山小屋風の西洋館がこの清々しい空間に溶け込むように構え、佇んでいる。
ここはピアソン記念館。

   アメリカ、ニュージャージー州エリザベス市に生まれ、ブリンストン神学校を卒業後、明治21年に日本へキリスト教の宣教師として渡り、北海道へは明治25年に函館、小樽、室蘭、札幌、旭川など各地で精力的な伝道活動を経て、この野付牛にやってきたのがジョージ・ペック・ピアソンである。
そのピアソン氏がアイダ・ゲップ女性宣教師と結婚し、この当時野付牛にやってきたのは大正3年のことだった。
それから母国アメリカへ帰国する昭和3年までの15年もの間、ピアソン夫妻は伝道活動のほか遊郭設置阻止や貧しい人々の救済など、私財を投げ打ったそれらの博愛的な活動は、その夫妻の人柄の偉大さ、愛、無欲、ユーモア、そして社会教育、精神文化、社会福祉の分野の先駆者として、また当時の人たちの心の拠り所として大きな功績を残し、北見市民の心の中に生き生きと今でも伝えられている。
 この市民が愛する館は大正3年に建設されてピアソン夫妻が15年にわたり生活した洋館を昭和45年に修復し、ピアソン記念館として昭和46年に開館されたものである。

 実は、藻琴山からの絶景を詠んだ歌人でもあった唐笠何蝶(とうがさ かちょう)は、医師の本業の傍らにピアソン夫妻の博愛精神を受け継ぎ、精力的に日本キリスト教会の北見教会設立に奔走した神と人を愛した宣教師でもあった。
会堂移設後の第二次世界大戦末期には会堂が軍部に接収されたり、唐笠氏はスパイ容疑で網走刑務所に投獄されるなどと壮絶なる人生を歩み、そしてあの句を詠んだ。
「湖の鷹 樹海の鷹となりにけり」
  唐笠氏は昭和31年に句碑が建立された後、昭和46年に永眠されたと云う。

  ぼくは先月の5月、藻琴山でクミちゃんと一緒に心に残る登山が、できた。
それからというもの神社と句碑の存在と、それに関わった人たちの想いというものを何かに取り憑かれるようにずっと追ってきていた。
 今の藻琴山頂上にある碑の山中源吉氏というのは、昭和11年に藻琴山の登山路を切り開くのに多くの功績を残した人であることも少しずつこの胸にわかってきた。
 そして過去の書史には、藻琴山神社は山頂に確かに建立されているようであった。
それは「網走神社奥の院」として、昭和9年9月、ニクリバケこと藻琴原野の一集落、稲富の青年団であった畠沢和一郎、佐藤数馬、成ヶ沢新八、居内末吉、平賀清一各氏たちが、元稲富集落にあった天照皇大神の石碑を藻琴山頂上に遷座させ、網走神社の間作社司が奥の院として祀ったと記録されている。
大正13年8月2日に網走支庁や当時の網走町の関係者によって踏査され、気圧計により合目が定まったとはいえ、現在の東藻琴村旧山園小学校付近を登山口とした刈り分け道路(昭和11年7年23日工事)さえない頃の話である。

 自分たちの神社の石碑を遷座ということは、大変な労力をもって移動させ、道東一円を一望できる高みの場から広く平等に、往年よりあらゆる方向の暮らしの場から親しまれてきた山に、豊穣をはじめ人々の家内安全や平和を祈願する博い想いが深くあったのであろう。

 先月、あのとき最後に天原さんに尋ねた神社や祠の今の所在は、ご本人もやや不本意そうにいつの間にか不明という答えであった。
だからなのか、ぼくはこうして時間を見つけては藻琴山の資料や往年を知る人たちを訊き尋ねては、神社や祠の所在を確かめようとしてきているのだ。

 ひとつの句碑には位置の所在をはじめ、この藻琴山からの絶景を見事にたったの17文字の言葉を詠んだ人の凄まじい人生と、そこには博愛の精神と生き様があった。
 そしてまだ、ぼくはその神社、祠の行方を追う旅の途中であることに気づくのだ。
「何故に、今、藻琴山の山頂に人々が想いを持って遷座され、広く里のみなの暮らしを見守る神様がいなくなってしまったのか」、と。
 ジジジ・・・一匹のセミがひとつの梢から飛び立ったようだった。


 

ピアソン記念館

つづく