知床ねぷたのきっかけ

 青森県弘前市で有名な"ねぷた"が、知床半島の麓、斜里町で「知床ねぷた」として毎夏、盛大に行われています。
「ヤーヤドー」、叫び声がこだまします。

「ドン、ドドン」、太鼓の音がとどろき、ものすごい熱気です。
そして、高さ8メートル、家よりも大きな「水滸伝」の武人が、ゆったりと滑り出します。
友好都市青森県弘前市との交流の中から始まった、たくさんの観光客が訪れる知床の夏を彩る最大のお祭りです。

大小15基余の扇ねぷたが町内の目抜き通り約2.5kmを練り歩きます。


なぜ、知床の斜里町で、青森県弘前市の"ねぷた"なのでしょうか。

史実によると、1807年、オホーツク海沿岸でのロシア軍艦による砲撃や略奪に対して、幕府が津軽藩を北方警備に当たらせたことが発端のようです。

今から200年以上前のことになります。


北方警備を命じられた藩士100人にとっては、知床の冬は予想以上に過酷でありました。
漁場にある粗末な小屋で暮らし、持参の米と味噌で食いつなぎ、赴任時はすでに秋の季節。
山菜はなく、売り物として扱われる川魚を捕ることや、アイヌからの支援を受けることさえも禁じられていました。

急な出発命令だったため、着の身着のままだった藩士たちは厳しい寒さ、栄養不足と飢えに耐えられず次々と倒れ、春を迎える頃には、わずか28人になっていたのです。

なんと72名もの藩士が亡くなったのです。


引き揚げ後、藩は民心に動揺が広がるとして関係者を口止めにし、事件の記録を“封印”しました。

斜里町には死亡者名簿が残されていましたが、具体的なことは分からずに、本事件は永遠に闇に葬られるはずでした。

しかし、1954年、「他見無用」と書かれた藩士の日記が、東京・神田の古書店で見つかったことで、事態は一変しました。

翌年には斜里町史にも掲載され、ようやく本事件は公の明るみになったのです。
その後、地元の郷土史研究家らによる慰霊碑建立の機運なども盛り上がっていきました。

事件を調べ、弘前市との交流にも尽力された「津軽藩士殉難慰霊碑を守る会」の名誉会長・日置順正さんは「藩士の日記が無かったら、事件は分からなかった。いつか事件が世に出ることを願って、日記にしたのだろう」と述べています。

 

弘前市の歴史研究家の皆さんですら、日置さんたちが訪れるまで本事件を知らなかったと云います。

知床博物館の裏道を上がった町民公園に、1973年に建立した「津軽藩士殉難慰霊の碑」があります。
斜里町は、慰霊碑を建立して以来、毎年町民の手で慰霊祭を行っていたことが縁で1983年に青森県弘前市と「友好都市の盟約」を結び、こうして盛んな交流を行い、藩士たちの霊を慰めているのです。

知床ねぷたは2日間にわたり開催されますが、金・土曜日の日中には町商店街を中心に「しれとこ夏まつり」も開催されます。

斜里のねぷたのお囃子が一同に集まる「ねぷた囃子フェスティバル」も開催されます。

 

そして同時に、多くの関係者により津軽藩士殉難慰霊祭も開催されています。