網走地方側の諸記録の一部です。
開拓の当初から朝な夕なにその姿が人々に馴染まれてきた藻琴山に和人による確かな足取りで人為が加わったのは、大正時代末期の頃です。
そのあらましは、次のとおりです。
大正13年8月2日
網走支庁・網走町・営林担当区の関係者、地元の有志ら一行が実地踏査を行い、気圧計により合目が計測されました。
このとき同行した平尾昌道(真言宗大法寺住職)が、七合目~頂上の急登を念仏を唱えながら登ったので、「真言坂」と名付けられたといいます。
昭和9年9月
稲富青年団の有志一行が元集落にあった天照皇大神の石碑を山頂に遷座し、網走神社宮司が「網走神社奥の院」と命名しました。
昭和11年7月23日
現在の旧山園小学校付近を登山口として当時325円で、広栄集落有志の労により頂上まで草分け道が作られました。
昭和11年10月
網走支庁長・網走町長を迎えて、第一回「山開き」が催されました。
昭和12年
殖民軌道が麓の山園地区まで開通したことを機会に、網走町が快適な登山の山として一般に紹介するようになりました。
その後、戦争がはじまり、脚光は消沈しました。
藻琴山の戦後復興の息吹は早いものでした。
それだけ人々は清純な山の空気と、広大なパノラマの眺望に心を癒したかったのかも知れません。
それらのあらましは次のとおりです。
昭和21年夏
網走観光協会とスキー連盟が主となって、地元小学校児童、青年団員、高等科児童の奉仕によって八合目(銀嶺水付近)に木造12坪のヒュッテを建てました。
昭和22年
網走町は網走市に昇格したと同時に東藻琴地区は分村しました。
昭和25年
網走観光協会と東藻琴観光協会・スキー連盟が企画し、網走支庁の後援により映画「藻琴山」(PR用)が制作されました。
昭和26年9月末
館脇操博士(北大教授)に依嘱して、藻琴山観光施設の実地指導を受けました。
昭和32年11月29日
東藻琴村の施設として、腐朽したヒュッテを改装しました。
規模は40名収容、「銀嶺荘」と名付けられました。
昭和36年10月6日
「藻琴山国設スキー場」(B級)の指定を受けました。
ゲレンデ平均斜度=7度、頂上付近回転バーン平均斜度=20度、
延長5467m、積雪150~200cm
昭和40年6月
北海タイムス社主催の「北海道観光百景」に藻琴山が選定されました。
昭和42年2月24日
高松宮殿下がスキー登山をされました。
昭和45年12月1日
国設「藻琴山自然休養林」の指定を受けました。(1431ha)
このように、藻琴山は、昭和50年代前半にかけて、多くの登山者による自然景観や高山植物の鑑賞などが行われていました。
昭和41年には民間バスにて銀嶺水地点8合目まで行ける交通手段があったと記録されています。
(1日1便1往復 そこで3時間 8合目で待ってくれているダイヤだったようです)
当時はまた若い人たちが男女の団体でハイキングを楽しむというブームもありました。
この昭和40年代は、今よりも多い、3万5千人もの夏山ハイキング客で賑わっていたようです。
冬には、昭和36年に指定を受けた 「国設スキー場」として、面的な自然林をそのままに、道東唯一のスキー場として藻琴山は脚光を浴びました。
ロッジやリフトですとか、そういう設備はなかったのですが、雪上車を使っていました。
斜面が緩やかで、特に雪質が良くて、樹氷帯を滑る快感はこたえられなかったと云います。
この冬のスキー場利用客だけで 当時1シーズンで1万5千人です。
これは、現在の近郊リゾートスキー場の利用者数の規模と変わりません。
雪質もパウダーを超える、北大雪などのシルキースノーのようです。
この国設スキー場の利用開発と、雪の藻琴山をPRすることを目的として企画されたのが、「藻琴山ダウンヒル大会」です。
第一回の開催は、昭和57年3月30日と記録されています。
コース設定も、6合目以下までの3000mの緩斜面が利用されていました。
この大会には北海道各地から参加者が年々と増えてきたものの(参加者100名前後)、利用者の牽引に利用していた雪上車の故障、廃車により、平成4年、大会は中止となりました。
この跡地は、今では、銀嶺水へ向かう林道の6合目広場から北に向かう雑木にその面影を見ることができます。
国設スキー場としての地図上の記載は、国土地理院により平成19(2007)年に消去されました。
また、ダウンヒル大会の時代を前後して昭和60年代前半にはリゾートスキー場の建設案も浮上していました。
環境アセスなどさまざまな事情により、本計画は実現されませんでした。
つまり、昭和36年の国設スキー場指定の頃から、夏山登山ハイキング客を含め、現在の10倍近い、年間5万人もの人たちにより昭和50年代まで利用され、藻琴山はたくさんの光を浴びていたものと推察できます。
その後、静かにされてきたということが、おわかりいただけるかと思います。
ゆっくりと自然回復してきた藻琴山を、これから、どのように適正利用と保全を考え、そしてどのように魅力や恩恵などを伝えることが大切になってくるかと考えます。
(参考資料:東藻琴村史)