日本百名山・斜里岳日誌

清岳荘管理人としての苦楽の日々CS(クライマックス・シリーズ)

2011-10-01

 

10月になりましたね。

 

風雨・低温 5℃ 水量も多し全員途中下山

そろそろ初めての小屋閉め作業です。

ぼくを支えてくれたモノたちは、たくさんありましたが、


小屋の時空を正確に刻み、ぼくを管理?する事務所時計

なんでもキレーにしてくれる、パワフル業務用掃除機

本たち(やはり"マンガ岳"はお客様にも人気でした)

そして、ちゃちゃ(管理人室にて指定管理施設業務報告書作成中)

2011-10-02登山者数 4,723名にて業務期間を無事に終える夜です。

ご覧のみなさま、ホントウにありがとうございました。

百名山・斜里岳の小屋番として、初めての、ぼくが務まりました。

おそらく、いまの40才の齢-
百名山地帯では、いちばん最年少な小屋番だったのかも知れません。

たくさんの交流と糧、学びがありました。

孤独で一杯、昨日の心配不安が、翌日の安堵となりつづけた一方で、
なにも関係ないときに、とんでもないアクシデントが突然、起こる。
そのときに、ベストで対応したらいい。
そのための気構えと余裕を持とう。

それにしても、宿泊最初と最後の人が、ソーナンするとは、
縁起の悪い、ツイテナイ初管理人だった。

初めて斜里岳に来られる方たちがほとんどな中での出会い、寝食を共に
する宿泊者さんたちは、ぼくの言動ひとつで気分も悪くしたろうし、稀に
よくした人も居たかも知れない。
どちらも、はんぶんこ。

24時間、物理的に小屋から離れられず、何かをせっせとしていないと
気が済まない性分、いつ休んだらいいのか、何がやりがいや喜びなのか、
マナーを守らない多くの人たち、きちんと出発の挨拶してゆく人たち、
 
食べたいものを食べたいときに食べられない、お風呂に入れない等々
苦難だったけれども、お客様との会話や笑顔、自然の移ろいで救われる。
これらも、はんぶんこ。

世の中、はんぶんこなのだ。

そして、何より、大切なことは、
ひとつのことをやりぬく
という達成感であって、
それは、どこか、登山とも共通しているのかも知れない。
そして、それは誰かの支えによってできていると云うこと。

とにかく、
登山事故を起こさせない、という、大げさなことではなく、
処女なる大好きな斜里岳に迷惑をかけられまい
と云う、自分に課したことは、なんとか、達せられたかな、とホッとしています。
(18才夏、網走から徒歩単独行、同年、冬山の初登頂山)


  魂のいちばんおいしいところ

 神様が大地と水と太陽をくれた
 大地と水と太陽がりんごの木をくれた
 りんごの木が真っ赤なりんごの実をくれた
 そのりんごをあなたが私にくれた
 やわらかいふたつのてのひらに包んで
 まるで世界の始まりのような
 朝の光といっしょに

 何ひとつ言葉はなくとも

 あなたは私に今日をくれた
 失われることのない時をくれた
 りんごを実のらせた人々のほほえみと歌をくれた
 もしかすると悲しみも
 私たちの上にひろがる青空にひそむ
 あのあてどないものに逆らって

 そうしてあなたは自分でも気づかずに
 あなたの魂のいちばんおいしいところを
 私にくれた
              (谷川俊太郎)

2011-10-03

 

朝、起きると、しんしんと降る雪の銀世界でした・・・20cmくらい
(いつもの定刻3時には降ってなかった)
小屋内外の〆のときに雪なんて、実に、ツイテナイ初管理人・・・

でも、宿泊者最後の人が、ソーナンして助かったのは、とあるお役立ち情報を教えておいたから。
今朝まで一晩、ビバークしてたら、たぶん大変な事態になってと思います・・・
(小屋出発5:30と速く、後続日帰り入山者へ注意喚起)

ヘリが飛んでくれたおかげで助かりました。

せっせと雪かきして、小屋閉め関係者さんたちみんなを待つも、誰も来られないので、
小屋閉め作業は、後日となる・・・

さて、

ようやく、下界の自宅へと無事に降りました。

初めての山中での単独生活、百名山ゆえ、全国並みに試されるホスピタリティ。

本来、どんな山にも優劣はないはずだけど、社会的なブームの影響を受けてしまう。

そこにマナーの縮図も発生します。

それでも、
斜里岳登山の素晴らしさは、登られた皆様の心に、深く残られたことでしょう。

降雪ゆえに小屋閉めの残務作業を残してきましたが、
以下、業務報告書をこれから最終作成します。
・登山者数報告書
・宿泊関連報告書
・販売関連報告書
・協力金等報告書
・土産品引継ぎ書
・管理業務日誌まとめ

2011-10-06

 

初雪も融け、地域の方たちと一緒に、小屋閉め作業を行いました。

北海道の680mの標高に、電気や水道、合併処理槽などを抱えてるので、
冬越しをきちんとさせるには、そりゃあ、たいへんです。

看板やテラスたちも全て撤去

丸一日かかって終了。

じーん・・・

まっくらになった誰も居ない小屋内へ、

たいへん、お世話になりました!

どうか静かに冬はお休みください!


と、心からお礼申し上げました。

 

(完)

 

2011年10月記

参考資料


あとがき

いってらっしゃい!
今朝も元気な登山者たちが、鈴の音をたてて、元気よく出発してゆきます。
親元を旅立ってから、初めての単独登山をしたのが、この斜里岳でありました。
暮らし始めた網走からとても美しい姿に見え、あこがれて、18才のまだ少年のぼくは、歩いて向かったのです。
それを機に、冬山登山も始めた初めての神々しい冬山の頂を4日間かけて、慣れない山スキーで同じく登ったのも、受け入れてくれたのも斜里岳でありました。
それから冬季積雪期に登してきました。
やがて、精鋭的な登山スタイルから離れ、いつか定年する頃には、この山の麓にでも棲みたいなあ、などと、ぼんやり思っていたのもつかの間、登山路地図とは違い、人生とは不思議な地図で、20年早く、その山中に棲む地点につながりました。
そんな標識はなかったと思うのですが・・・
棲むと云っても、ありがたくも立派な山小屋施設です。
内外の生水は飲めません。お風呂はありません。単身自炊です。
この山は、深田久弥氏が選んだ日本百名山のひとつであり、夏季だけでも6,000人以上もの登山客が、全国から賑やかに訪れるのであります。
山小屋前の登山口の原生林からは野鳥たちのさえずり、清涼な沢を登り、大小幾多の滝を超え、ぐんぐん高度をかせいでゆくと、開拓された斜網地方の平野や摩周方面、そして国後の島まで望め、ハイマツの中、寝ころんで、心地良い風と咲き乱れる高山植物の花たちが汗と疲れを癒してくれるのです。
孤高なる独立峰らしい斜里岳。
風は夏は尾根を鳴らし、冬は尾根を唸らせます。
雨天や吹雪の日には、乳白色で真っ白な魔の世界です。
晴天の日には純白な雪と共に、その鋭利な輝く頂たちを天空へ持ち上げます。
この山が天と地と仲良く厳しい気象であるからこそ、日本を代表する清流・斜里川も、各名水なども育まれているのです。
この山には、夏山開きの安全祈願祭とは別に、地域の人たちによる神様が山麓から頂上まで形づくられています。
この山ができたのは、約28万年前の火山活動なのですが、人との営みを共にしている山は、ぼくは好きです。      

いつ頃からなのか、高校生の頃から登山を始めて、山での祠や神社などを意識するようになったのは・・・
夕張岳や利尻岳頂上での、地域の人たちによる熱心な動きも見てきました。
母なる藻琴山頂にもあった祠もなくなり、そのルーツを探ってもいました。
この山は、斜里コタンのアイヌたちからは、オンネヌプリ(年老いた山)と敬愛されてきました。
初登頂の記録は、北海道開拓に来日したライマン(地質学)、1871(明治4)年。
探検家・松浦武四郎も、2回目の遠征時1845(弘化2)年に、斜里岳を海岸地帯から眺めた光景を次のように詠んでいます。
 斜里岳やましう嵐の吹きかえて
 稲の穂波のはやたてよかし
開拓農家さんたちの闘いの支えや雨乞いの頂でもありました。
皆既日食の際、世界中の天文学者たちが観測をした地でもあります。
その際につくられた建造物の一部残骸は、沢の下二股などにも見られます。
一つの山麓地域の方たちも、次のように残しています。
(江南開拓史 昭和46年刊より抜粋)
 江南部落の東南にそびえる斜里岳は、海抜一五四五メートル、
 その孤立した山岳の典型的な山容は、登山者ばかりではなく、
 釧網線を通る旅人にも深い愛情をもってくる、わが江南の表徴であり
 崇敬の的である。
 朝夕に仰ぎて ここに五十年
 斜里の高嶺の姿 尊し
その地域の学校も閉校となりましたが、往年には木材を供給し、原野を切り拓いた跡地は今では豊かな平野となって、林業から環境の時代になりつつある中で、その山容は道東のマッターホルンの名に恥じない東オホーツク地方のシンボル、秀峰として、見て良し、登って良しの山として、いまでも斜里岳は人々に愛され続け、水の恵みを与えてくれています。
その当地や神様に、ぼくは、ようやく若い人生の歩みの中で受け入れられたのでしょうか。
山との縁と云うのは、本当に不思議なものです。
今夕も、安全に楽しく下山してきた登山者の鈴の音の数をかぞえて、1日が終わります。
 山は どーんとそびえ
 時折 聞こえる登山者の鈴の音
 皆がルールを守り
 楽しいときを
お疲れ様でした!、おかえりなさい!
この地を、きよらかな里、清里と呼びます。
この地点を、きよらかな山の小屋、清岳荘と呼びます。