オホーツク文化

『海に出たところが、常呂である。
 田園がひろがり、ひろい丘陵が樹林を茂らせ、オホーツクの海がみえる。
 さらに網走側に能取湖をもち、べつの側にサロマ湖をもつといったぐあいで、じつに景色がいい。
  この山水のなかを歩いていれば、たれもが古代感覚をよみがえらせるにちがいない。たべものを採取してまわるくらしのなかでは、常呂ほどの土地はない。
  流氷期には海獣がとれるし、ふだんでも、淡水・海水の魚介がゆたかで、野には小動物がかけまわっている。常呂川には、季節になると、サケやマスがのぼってくる。
 採取のくらしの時代、常呂は世界一のいい場所だったのではないか。』

これは、司馬遼太郎氏の著書『オホーツク街道』~街道をゆく38(朝日新聞社刊)の一文です。

この北見市常呂を含めたオホーツク地方の歴史には、未だに多くの謎が残されています。

 

およそ6世紀から13世紀頃にかけて、サハリン・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に陸獣や海獣の狩猟、漁労、採集活動を生業とする未明の民族集団が居住していたというのです。

彼らの形成した北方の文化形態こそが、その謎を秘めた「オホーツク文化」です。
一般にオホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州靺鞨文化(4~10世紀)、女真文化(10~12世紀)の系統をひいて誕生し、やがて本州の土師器文化(7~11世紀)の影響を受けて発生した擦文文化(8~13世紀)やトビニタイ文化と融合し、吸収されていったと考えられていますが、彼ら及びその文化は、「突如、忽然として消えてしまった!」という説さえあるのですから、ロマンが注がれます。
また、オホーツク文化と中国大陸を含む他文化との接触や交流は、アイヌ文化の発生に大きく関わり、北回りの文化系統は、後に山丹交易ルートとなっていったとも考えられています。

現在、見学できる代表的な遺跡としては、網走市の「モヨロ貝塚」があります。


1913年(大正2年)に網走を訪れたアマチュアの考古学研究者・米村喜男衛さんが発見しました。
発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った若かりし米村さんは、網走に住むことを決意して理髪店を開業し、その傍らで遺跡の調査と研究へ精力的に携わったのです。
戦後、本格的なモヨロ貝塚の発掘調査指導に訪れた言語学者・金田一京助博士は、米村さんのことを、

「おほつくのもよろのうらの夕凪にいにしよ志のび君とたつかな」

と詠み、その歌碑もあります。

果たしてオホーツク文化の担い手民族は、誰なのか? 

オホーツク文化のルーツは、どこであるのか?
オホーツク文化とアイヌ文化の関係はどうなのか?
その真相は、未だに多くの謎に包まれています。


オホーツク地方は古代のロマンも秘めています。


網走周辺は考古学上でも、とても興味深い地です。

オホーツク式土器(道立北方民族博物館)


北海道立北方民族博物館

日本で唯一の北方民族の文化を専門に紹介する博物館です。

オホーツク文化の資料も充実しています。

モヨロ貝塚館

網走市立郷土博物館の分館になる「モヨロ貝塚館」。
周辺の遺跡なども見学できます。