北海道の各地にはさまざまなアイヌ伝説が伝えられており、アイヌ語や自然の万象観を知る上で、とても興味深いものが多いです。
藻琴山にまつわるものとして、次の伝説があります。
屈斜路アイヌの伝承から聞き取った記録のようで、一般的に広まったのは戦後の出版物などによるところが大きいとのことです。
この伝説において藻琴山は時代的には現実噴火をしていなかったため、諸説の意見があろうかと思いますが、ご紹介します。
昔、屈斜路湖の奥にトーエトクウシベ(湖の奥にある山=藻琴山)というわがままな山があり、何かというと煙を吐き、火を降らして乱暴に働くので、周辺の山の神や人々はたいへん困っていました。
湖に開いていた河口近くのピンネシリ(雄山)が、この無法者をこらしめてやろうと、槍投げで勝負を決めることにしました。
ピンネシリの投げ槍は狙いたがわずトーエトクウシベの胸に突き刺さり、山は2つに裂けて血が奔流となって流れ、湖の岩を真っ赤に染めるほどでした。
しかし、トーエトクウシベはひるまず、槍をピンネシリに投げ返しましたが、狙いが外れて肩をわずかに傷つけて、遙か後方のカムイヌプリ(摩周岳)に刺さったので、カムイヌプリは立腹して千島の国後に飛んでゆき、チャチャヌプリ(長老のような山)になったといいます。
この騒ぎ以降は、トーエトクウシベもおとなしくなりましたが、槍で割られたところはヌプリエペレップ(山の割れたところ)という大きな沢となり、ドンドレ川という奔流が噴出した血のように流れでて、血に染まった岩はそのまま湖畔に残りました。
一方、肩を負傷したピンネシリの傷跡は岩が露出して、それ以来、ピンネシリをオプタテシケ(槍のそれた山)と呼ぶようになりました。
なお、摩周湖畔のカムイヌプリの裾の赤岩は、このときカムイヌプリが流した血であり、対岸の白い岩は涙のあとであるといいます。
明治の末期、モコトに入地した人たちが交流していた、実在したアイヌの方です。
「ヤイトメおとうさん」と親しみをこめて呼ばれていたようです。
日高地方の出身で、明治中期に浦士別の神浦で生活していました。
クスリ(釧路)から春早く、固雪を歩いて弟子屈から山越えしてきたといいます。
小清水町史には「イヤトムタ(伊弥登牟多)」と記されています。
日本名では佐々木、相撲が強くて「男山」のシコ名もつけられ、入地者には「佐々木ヤイトメ男山チャチャ」とも呼ばれて慕われていたようです。
身長は六尺豊かな韋駄天で、勇猛かつ怪力の持ち主、熊と組み討ちして捕らえたり、射止めた熊は100余頭とも云われていたそうです。
住居のそばには、イナウサン(弊棚)をつくり多数の熊の頭蓋骨を祀っていたそうです。
小清水のアイヌ保護区で牧場を開いたり、狩猟を生業とされていたようです。
藻琴原野殖民地区画測量隊にモコトアイヌとして加わり、協力していました。
小清水町神浦墓地に埋葬され、居住跡地には「男山伊弥登牟多主命」の碑が建立されていす。
(参考資料:東藻琴村史)