藻琴川を美しくする会の活動

道東の網走郊外、藻琴山の麓に東藻琴(ひがしもこと)という人口3千人に満たない、畑作と酪農を中心とした農村地域があります。

そこを流れゆく川が、藻琴川です。

母なる藻琴山を源に、細い支流たちを集めて藻琴湖を経てオホーツク海へと注ぐ、流程29.8kmの二級河川です。

 

1993(平成5)年、地域の郵便局長Hさんの声かけにより、地域農業者のご夫婦たちなどが参加して河川清掃のボランティア「藻琴川を美しくする会」の活動がはじまりました。

むかしのように「ヤマメ」がたくさん釣れる、きれいな川に戻したい、と。

はじめの頃はたくさんのゴミや流木などの除去でたいへんな労力がかかりました。

 

また当時は、家畜ふん尿処理問題が深刻な地域課題ともなっていました。

 

この会の活動は、20年つづき、河川清掃のほか、会員の親睦、ほかの地域団体との交流や視察研修、水質調査や子どもたちとの触れあい、手打ちそばづくりなど、さまざまな活動を展開してきました。

とくに移住者さんや学生さんたちとの交流、女性の参加は欠かせない存在でした。

 

ごく小さな身の丈のボランティア活動が、地域に暮らす農業者や下流域に生活する人たちなどの環境意識を変えていったことは、大きな意義があったといえるでしょう。

また、自然や産業などにおけるむかしの環境や暮らしを知るご年配の方たちが若い世代へと、その苦労や喜びの様子などを伝えていたことも忘れてはならない財産です。

まさに川を舞台にした自然学校であったと云っても過言ではないと思います。

 

その清掃活動は20年間で、延べ345名、延べ25,800mにも及びます。

 

胴付きで川の中へと入り、歩きながら作業をするということは、たいへんな重労働です。 

2012(平成24)年、残念ながら会員の高齢化が深刻となり、散会するに至りました。

 

北海道知事社会貢献賞受賞(平成15年度)

 

(社)日本善行賞受賞(平成23年度)


藻琴川を美しくする会のみなさんへ

 ぼくはもこと川へつれていってくれて、石のしたをみると、たくさんの虫がいてびっくりしました。
もこと川はきたない川だとおもっていました。

こんなにたくさんさかながいるのをしりませんでした。
ゴミはちゃんとこれからもすてないようにしたいとおもいます。

川もたいせつにします。
もらったさかなはすぐしんでしまいました。でもかえるはまだ元気です。
またつれていってください。まっています。

ありがとうございました。

 わたしは、大人の人たちがしぜんのそうじをしていてくれていることを知りませんでした。
川にも行ったことがありませんでした。

水がこんなにもつめたくてどうしてさかなたちがいるのか ふしぎに思いました。

いろいろとおしえてくださり、とても勉強になりました。
もっと、たくさんいろんなことが知りたいです。

川を大切にする気もちがでました。
こんどは川でピクニックがしたいです。

(地域に暮らす小学4年生のみなさんからいただいた感想文の一部より)


■消えた魚影
 太平洋戦争~戦後の混迷で、一時期釣りの楽しみなど忘れられていましたが、平和の実感と共に釣りをと思った頃から、年を追って藻琴川水系の魚影が少なくなりました。一報で期を同じくして都市では釣具店や情報雑誌の発売が見られ、経済復興~成長の到来と共に釣りが新しいレジャーとして宣伝され、注目されるようになりました。新しい釣り道具が開発され、釣りブームの観さえ呈するほどとなりました。しかし、海釣りはともかく、渓流釣りは話題も釣り人も海釣りの比ではありませんでした。それほど釣り圧がひどかったのです。
なぜ、北海道的に河川から魚影が消えていくのか、藻琴川水系の魚が少なくなったのか、一部で工業廃水や家庭排水による水質汚染が問題視されましたが、東藻琴地区の場合は純農村という環境から、おそらくは、
1、戦時~戦後の森林資源乱伐により、水質や水量、水源構造が減退したこと
2、戦後急速に使用した農薬の影響が河川に及び、水流を汚染したこと
3、治水事業による河川改修が著しく進んだ反面で、護岸や河畔林の消滅など生息環境が変化したこと
が、推測されています。(旧東藻琴村史p160より引用)

 

 

■60年以上、藻琴川のさかなたちを見つめている方に聞く
 昭和のはじめ、東洋沢の奥へと開拓に入った私が子どもの頃は釣りなどをする暇もなく開墾作業ばかりでしたが、それでも雨の日には麦わら帽子と"みの"を身につけて柳の枝でミミズを餌にヤマメ釣りを楽しみました。大雨が降っても濁ったり、増水などしなかったものです。ヤマメたちが飛び跳ねるほどいました。
 しかし、「昭和30年すぎ、網走市へ水道水を供給するようになってからは川の水量が大きく減り、ガラリと環境は変わりました」。
 昔はこの沢にはサケは数匹程度でほとんど遡ってきませんでした。熱心に苦労してきている放流事業のおかげだと思っています。ザリガニもサワガニもたくさんいました。ホタルやカエル、トンボたちもたくさんいました。きっと農薬のせいで減ってしまったのかと思っています。
 サクラマスは今よりも大きく、たいてい雌は産卵床を尾びれをすり切れるほどに使い、数日は産卵後も卵を守っていました。必ずその上流にはすぐに逃げ隠れられる場所を持っていたように思います。いまはサクラマスも小さくなり、産卵も1日で終えてしまっているようにみえます。
サクラマスの雌の産卵に放精するヤマメの子孫が、ヤマメになって川に残るのかな、と思ってきています。
 ニジマスは、もともといませんでした。養殖場と釣り堀が出来てからだと思います。東洋地区の沢(丸万川水系)の上部で昔、池を作ってニジマスを飼育していたことがあったみたいです。だからなのか、今でもその川にはニジマスがいます。自然産卵しているのかも知れません。
 オショロコマはもともとはいませんでしたが、藻琴川の、ある支流の一区間にだけ昔より棲息していて驚いたものです。今ごくまれに釣れるようになりましたが、コロンとした体型で、これは養殖場などからのものだと思いますが、詳しいことはわかりません。
 イトウも本流の下の方にはいました。昭和はじめ当時、上流などで産卵までしていたかはわかりません。
 今ではヤマメやイワナたちもずいぶんと減り、ウグイも本流の末広地区まで棲息してくるようにもなりました。今の子どもたちが藻琴川に親しみ、釣りや遊んでいる姿を見ていきたいものです。
(語り手 O本さん 2008年4月)

 

ヤマメたちが棲む、とある支流の様子

 

会員みんなが集った地域の郵便局跡

 

釣りあげたヤマメたちの美しい姿

 

冬の総会及び懇親会開催時には、下流域の漁師さんたちから幻の牡蠣を差し入れてくださっていました。

流域の方たちが仲良くされていたことがよくわかります。
(於:佐々木旅館)

【エピソード】

ある日、職場に、会員でもあり地域の篤農家(とくのうか)さんでもあるCさんがやってきました。

まじめな話がある、と云うのです。
「馬を使っていた頃から馬頭さん、いまの乳牛や肉牛たちには牛魂祭って、初夏にあるべ?
 さかなにだって、あっていいんじゃないべか、どうだべ?」

真剣な顔をして、そうおっしゃるのです。

毎日、朝から晩まで自然の下、天候とにらめっこで作業をし、土や作物たちを見つめ、自然の息吹を誰よりも感じている農家さん、そして、その中でも篤農家さんと呼ばれる技術や経営、そして人格に優れた方たちが地域農業を支えているリーダーです。
Cさんの畑の一部は藻琴川が氾らんするたびに浸水被害を受けてもいました。

大切なことは知識ではなく、他のいのちをも思いやる心なのだと思う出来事でした。

藻琴山と藻琴川のある農村風景をいつまでも-