「僕たちが毎日を生きている瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい」(星野道夫著 「旅をする木」より)
しばらく雨が降っていない9月中旬、晴れの午前中、流程87kmの河川の上流域へ魚の観察に行きました。
まだ、ここまではサケマスたちが遡っては来ていないよね、なんて思いつつ偏光グラス越しに川面を見下ろして観察してみると、川岸の浅瀬に大きな魚影が数匹、くるりくるりとしているのが見えました。
サクラマスだ!
サクラマスはヤマメの降海型、生まれて2年目の春に、銀色の身体となって海をめざし、数年、海で成長してから産卵のために川にやってくるのです。
春の季節に海から川に入り、淵などに身を潜め、めぐり、秋にかけて川の上流域へと遡上します。
ぼくの服装は、カーキ色のジャンパーにモスグリーン色の胴付き姿。
そっとそっと川岸へ近づいてみます。
体勢は寝ころびながら、じりじりと匍匐前進をします。
泥だらけになっても構いません。
手には2003年に発売されたコンデジCanon IXY200aに、水中ハウジングをかぶせたもの。水中のサクラマスの写真を撮れるかしら。
頭さえ上げずに匍匐前進をしていたからなのか、川岸の浅瀬に3匹はいると思われるサクラマスたちは、どうやら逃げません。掘り作っている産卵床があるからでしょうか。
そーっと、両手を水中に伸ばしてシャッターを切ってみると、そこそこに写っています。
産卵床にいるメスの後ろ側から撮影してみました。
大きな尾びれ、とがった尻びれ、斑点も確認できます。
サクラマスの尾びれには斑点があったのですね。
上流側には、婚姻色で薔薇色に染まったオスの姿が見えます。
メスが尾びれを使って、産卵床を掘っています。
ヒトの手ではシャベル数回分かと思われる産卵床を、メスは数日かけて掘り続けます。
やはり、石や砂礫のサイズ、伏流水など様々な条件が必要なのでしょうか。
サクラマスは水の匂いを覚えているのでしょうか。
懸命に尾びれを使って掘っています。
その傍らには、大きなオスの姿。
3匹に見えたのは、メス、強いオス、弱いオスだったようです。
メスを見守りながら、他のオスが侵入してこないように、強いオスはパトロールしています。
オス同士の攻撃は、すばやく、そして、ときに口で噛み合うほどの力強さと勇ましさです。
だんだん水中に入れている手がかじかんできました。伸ばしている腕も痛い。
きっとこの姿、もし別の人に見つかったら、川岸で人が倒れているんじゃないかと通報されそうです。
産卵床の仕上げも、もう少しのようです。
メスが尻びれを沈ませ、卵を埋め込む深さや位置を確認しています。
オスは身体を震わせながら、メスにすり寄り、産卵を促しています。
それでも、まだメスは産卵床をまだ掘り続けます。
いつになったら、産卵かな?、その瞬間は見られるかな?と観察と撮影を続けました。
しかし、ナント、そこでカメラのバッテリーが切れてしまったのです。
どうしよう・・・時間は正午過ぎ、産卵までまだ時間はあると思う。
意を決して、ずるずると匍匐後進をします。
街にバッテリーを買いに行き、充電をして、観察ポイントを上から見てみると、残念ながら産卵は終わっていたようでした。
メスだけが、一匹、真新しい砂礫をかぶせた産卵床を守っていました。
オスたちは、もういません。
産卵を終えたサクラマスは、やがて、その生涯を終えるでしょう。
ぷちぷちと光がはじけるような透明感溢れる秋晴れ、そしてしばらく雨が降っていなかったおかげで澄んだ水の条件、川岸の浅瀬で産卵床を作ったサクラマスとの出会いは、心象に残る、とても特別な物語でした。
さわやかな秋晴れの10月初旬、チミケップ湖へ出かけました。
この湖の名前は、アイヌ語の「チミ・ケ・プ(cimi-ke-p)」に由来すると考えられ、これは「分ける・削る・もの」という意味で、上流の峡谷の姿、すなわち「山水が崖を破って流下する所」を現したものと考えられています。
美幌町を抜け、津別町をさらに阿寒へ向かう途中から、陸別方面に行き、すぐ右手の道路に入ります。ここの地名を本岐と呼びます。昭和後半までも開拓農家が次々撤退した寒い地帯です。
山裾の牧草地の中を走ります。酪農のための牧草ロールが白色にラッピングされて、点々と転がっています。
道路は、やがて砂利の未舗装となります。まるで林道のようです。
路肩は弱いかも知れません。ゆっくりと慎重に運転してゆくと、明るく視界が開けます。
そこが、チミケップ湖です。
北海道オホーツク地方の奥座敷の一つとも呼ばれ、世界自然遺産・知床同様の原生林に湖は包まれています。
山肌は、まさに錦秋という言葉がぴったりです。
赤や黄色、オレンジ色があり、常緑樹などの緑色も混ざって多彩で美しいです。
湖を左に見ながら進むと、まもなくチミケップホテルに着きます。
小さいながらも高級な本格的リゾートホテル。ここは宿泊せずとも、喫茶できるのが何とも素敵です。(いまもあるかしら?)
ここから散策路があります。およそ40分ほどで登れる展望台があります。
クマがいそうな匂いのする森深い感覚がします。クマがいるかも知れないという恐怖は、いまの日本では、とても贅沢なことなのかも知れません。それは人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからです。
森林浴ウォークへの欲求の気持ちが上回ります。湖畔の森の散策路とは、なんともロケーションが素晴らしいではありませんか。
そもそも、不思議な現象、紅葉の仕組みとは何でしょうか。
植物には緑色の葉緑素、そう、光合成をする大切なもの。
そして黄色のカロチノイド、赤と青と、それが合わさった紫色のアントシアン、黄色のフラボノイドの4つの色素が含まれています。
このうち紅葉に影響するのは、黄色のカロチノイドと、赤のアントシアンです。
夏からだんだん秋に向かい、日射しが弱まってくると、緑色の葉緑素が減り、黄色のカロチノイドが目立つようになります。
一方、葉が赤くなるのは、気温が下がってくると、葉に栄養分が届きにくくなり、デンプンがたまってきます。それが分解されて、赤いアントシアンに変化するためです。
これは、リンゴなど果物が赤くなるのと、同じ原理です。
美しい紅葉になるための条件は、その年その年での気象条件にはよりますが、夏が暑くて日照が多いことと適度な降水があり、初秋には台風などの強風がないこと、秋になっての寒暖の差が大きいことなどが要因となるようです。
さらに、最低気温が8℃以下になってから見頃になるまでの間に、雨が多いと、色づきが悪く、逆に日光を十分に浴びると、きれいに色づくと云われています。
なんとも条件が複合的です、一体、何をもって今年は紅葉の当たり年だの、ハズレ年だのという人たちの多いことでしょう。それほど毎年の紅葉を楽しみにしている目利きの熟練の人たちがいると云うことなのかも知れません。
森を散策していると、空気が透き通っています。風がそよそよ。小鳥たちの歌が聞こえます。
秋の景色は、透明感があって、自然をより美しく変身させます。
魔法がかけられたみたいです。
景色にとっては、ほんの薄化粧かも知れません。まるで絵の世界のようです。
カーテンの柄にしてはどうでしょうか。部屋が落ち着かなくなりますかね。
今流行のプロジェクションマッピングでも良いかも知れません。いえ、動きには向いていないかも知れません。どうでしょうか。
足下にどんぐりを見つけました。
「どんぐり図鑑」なるものがあるほど、どんぐりと言うのは奥深い世界です。
古代縄文や弥生には食糧ともなっていたほどですから、現代の子どもたちと調理などを試してみるのも楽しいかも知れません。
ひとつ見つけると、ふたつ、みっつと、どんぐり眼(まなこ)になり、どんどんと手のひら一杯になります。
どんぐりは樹木、そう、落葉広葉樹の種でもありますから、拾って持ち帰り、土に浅く埋め、水をこまめに与えていると、やがて根が出てから、芽が出ます。
芽が先ではないのです。これは意外な盲点です。すっかり根のことは忘れていた子どもの頃を思い出します。
森林インストラクターの教材によりますと、日本は世界に誇りうる紅葉が美しい国であり、それは奇跡とも云われています。
欧米での紅葉と言えば、単色が多いです。それに比べて日本は、赤や黄色、オレンジ色があり、常緑樹などの緑色も混ざって多彩で美しい紅葉が見られます。
紅葉する木は、欧米では約13種類あるそうですが、日本にはなんと約26種類もあると云います。
なんと恵まれたことでしょうか。
さまざまな色合いを彩どる錦秋になるには、悠久のロマンのストーリーも加わります。
それは氷河期時代まで遡ります。
日本は氷河に完全には覆われなかったおかげで、紅葉する落葉広葉樹が残されました。
そして、気候がまさに良いのです。
ヒマラヤからの偏西風などのおかげで、適度な降水と気温などが保たれます。
昔から人々は里山や神社などに紅葉する樹木を植えて、愛でてもきました。
絶妙な条件がそろって、今に、目の前に紅葉を楽しめているわけですから、自然の奇跡や不思議さに感じずにはいられません。
いえ、奇跡ではなく、必然の選択の結果が、いまの自然の姿なのかも知れません。
日本は、世界に誇りうる紅葉が美しいと云う、ひとつの物語があります。
さあ、散策路の帰路につきます。あと30分も歩けば駐車場です。
チミケップ湖とも、もうすぐお別れです。
ほどよい運動と、帰路を辿る達成感に似た心の余裕から、つい口ずさみたくなる心地になります。
そんなときには、ぜひ、「水戸黄門」のメロディ♪に、「どんぐりころころ」の歌詞を合わせて歌ってみて下さい。
山歩きを下山するときなどでも構いません。
歌い終えると、くすっと笑うように、韻(いん)がぴったりなことに驚くことでしょう。
(参考資料:全国森林インストラクター養成講習改訂3版)
10月中頃の日曜日、晴れた暖かい午後に雪虫(ゆきむし)が飛びました。
北海道と東北地方だけでしょうか。
生態は、北海道大学の河野広道教授によって解明されはじめ、科学映画「雪虫」によって広く知られるようになったと云われています。
手で捕まえると、死んでしまうほど儚い虫です。
腕の袖で宙をすくい、指にのせてみました。
「小さな体に、ポンポン白い綿つけてさ」
この虫の正式名称は、トドノネオオワタムシ。アブラムシの仲間です。
雪虫は春に卵からメスの幼虫が生まれ、5月に成虫になり、そのメスが単独で子供を作り増えていきます。
成虫した雪虫は10月頃に飛び回ってオスとメスが出会って成虫を生みます。
この世代が白い綿をつけた雪虫の正体です。
(綿のように見えますが、正体は蝋、つまり、やっぱりアブラです)
次のいのちをつなぐため、トドマツからドロノキへと移動する時です。
日や時間によっては大量発生することもあります。群飛と呼びます。
子どもの頃に自転車に乗っていましたら、口の中に飛び込んできたことがありました。
この雪虫が飛ぶと、そろそろ初雪が近いことを教えてくれます。
あと1~2週間後です。
秋のひととき、余計にさみしい感じがしますが、雪虫の姿と名前の響き、なんだかロマンティックでもありますね。
はて、雪虫の英訳は、なんでしょうか。
網走の藻琴から道道102号線を川湯へ向かい、藻琴峠を過ぎると屈斜路湖(くっしゃろこ)が眼下に見えてきます。
北海道で一番大きな淡水湖で、謎の怪獣クッシー騒動があった湖としても有名です。
写真は、展望すばらしい藻琴山の山頂から撮影したものです。湖の真ん中の島を「中島」と呼びます。
北海道には、体色に白斑があるアメマスと呼ぶ15-20cmの渓流魚がいます。中には海へ降りて70cmを超えるビッグサイズになるものもいます。これを海アメマスと呼び、川に残るものは、エゾイワナとも呼びます。
アメマスは北海道では身近なさかななのですが、まだまだ詳しい生態や生活史は明らかになっていません。
(余談ですが、ぼくの卒論研究は、知床半島の河川におけるオショロコマ(北極イワナの仲間)の生態でした)
アメマスは、北海道各地にアイヌ伝説として登場します。
その一説を物語としてご紹介します。
屈斜路湖(くっしゃろこ)の中島はもと現在の奔渡(ポント pon-to=子である沼)の所にあった山であったところがこの湖に昔、大アメマスが住んでいて、頭は湖の上手に岩のように水の上まで現れ、尾鰭は釧路川の出口あたりにゆれ、背鰭は湖上に現れて天の日に焦げ、腹鰭は湖の底の石に磨れているという大きなもので、湖を渡る船でもあると波を起こして船を覆して人を溺らせ、退治にいった神々も寄せ付けないという恐ろしい魚でありました。
あるときそれを聞きつけたアイヌの英雄オタスウンクルが銛(もり)をもってこれを退治に来て、見事に大アメマスの目玉を突きました。
しかし大アメマスそんなことで容易にまいらず、大暴れに暴れどうにかすると銛の柄に結びつけた縄をしっかり握っているオタスウンクルが水の中に引きずり込まれそうになるので、オタスウンクルは必死になって近くにあった山にその縄を結び付けましたが、大アメマスも必死になって暴れてため遂に山が抜け、湖の中に崩れ込んでしまいました。そのため大アメマスは山の下になって動けなくなってしまいました。
この山が現在の中島であり、山の抜けた跡に水がたまったのが奔渡(ポント)であるといいます。
現在でもこの地帯で時々地震が起こるのは、山の下になったアメマスがまだ死に切れずに暴れるから起こるのだろうといいます。
北の大地が凜とシバレるようになる初冬、サケが死んだ。
9月頃から川を遡ってきた一群の最後になるサケです。
ゆっくりと身を川底へ横たえ、冷たい水の中に、ただただ沈んでいます。
自分が生まれた川で産卵をするために、あらゆる感覚器官を使って、北洋の海から数千キロも旅をしてきました。
そして川を遡ってきました。
やがてパートナーが決まり、川底から湧水のある地点で神聖な産卵の儀式を終えると、こうして死んでしまいます。
ほんのわずか産卵したところに生きて残りますが、余力は残していません。
産卵の後には、ほんのわずかな体力さえも残していません。
ですので、産卵後は本当に死んでしまいます。
それは宿命とか約束とか、おそらくそういう摂理がいのち全体を支配しているからなのかも知れません。
その死にゆく速度は、子どもの頃にいつか見た、まるで夕日が地平線に沈み、ぐんぐん溶け込んでゆくかのようなスピード感、一瞬の時の流れです。
森と海は恋人だと云います。森が海を育てるとも云います。
山の森から海へ、上流から下流へ、水の流れのゆくまま、土砂や栄養が流れ注いでゆきます。
そういう意味では川は恋人の橋渡し役、身体に例えれば酸素や栄養を運ぶ熱き血管のようなものでしょう。
海から川を懸命に遡り、上流で死するサケマスたちの身は、海から栄養を運びあげる恩返しなのかも知れません。十分、その役割を果たしていると思います。
川の栄養となって、川や周辺の森で生きる生きものたちの命を支えています。
それは、海からの使者とも言えるかも知れません。
川底に死した身は、ワシやカモメ、カラスたちなどによって食されてゆきます。
クマやキツネたちなどにとっても、厳しい冬を越えてゆくための貴重な食糧になります。
各地幾千幾万ものサケたちの死がいは、そうして冬を越すものたちのいのちを支えています。
最後の背骨一本になるまで支えます。
ゆらゆらとするまで、ぼろぼろになるまで、その身を捧げます。
そのぼろぼろは春の増水時までには流れてしまいます。
冬に砂礫の中で卵からふ化し、春に稚魚となった子どもたちは、その姿を見ることはありません。
母なる川で、サケが死んだ。故郷で死んだ。見ることのできない自然に還る。
そこには悲しみや憐れみなどといった感情も人間には生まれるかも知れません。
太古から生と死がひとつに内包された野生、成長と回帰の繰り返しの光景です。
サケの世代交代、川を舞台にした生まれ変わりの営み、それはひとつの物語でしょう。
サケが死んだ。
その川は、沢からふ化場施設の横を経て、A湖の湖畔へ注ぐ、川と名付けるのには多少おおげさなくらいの小さな川です。S川と呼びます。ちょうど湖の湾にも面しています。
ここから、たくさんのサケたちの稚魚が放流されているため、ここに帰ってきます。
帰ってくるサケたちは海では大きな定置網、川の下流ではウライ(人工ふ化用の親魚を捕るための梁)で捕獲されます。母なる故郷の川へ帰って自然産卵できるのは、数%に満たないとも云われています。
サケは海からの使者、いのちを逆算するかのような必死の産卵をし、やがて流域の生きものたちの栄養となると、感受編で述べましたが、全体数から見ればそれはほんのわずかなサケたちです。
誕生した水の匂いをたどって、ここの湖畔の橋が、S川に帰ってきたサケたちの目印です。
どれほどのサケたちが、誕生した水に向かって遡上遊泳しているのでしょうか?
次のたった一枚の写真だけでも25匹以上が写っています。そんな光景が広がっています。
アイヌの人たちが自由に狩猟や漁労などをしていた頃、川を遡るサケたちの群れの中に木の棒を立てると、ひしめき合って棒が倒れないくらいのサケたちの群れであったと聞いたことがありますが、そんな数でしょうか?
むかしは沖合定置網も人工授精用のウライもなく、河川には人工の落差工がありませんでしたから、自然産卵する数が多かったのかも知れませんね。
残念なことに、このS川では、せっかく帰ってきても自然産卵をする場所がありません。コンクリートと土管しかないのです。これがS川の悲劇です。
サケの稚魚を子どもたちが放流する微笑ましい春の光景があることに対して、こうして産卵できずに、ひしめき合い、気軽に大きなサケたちだけを観察できるのは、S川の位置の皮肉さであるのかも知れません。事実、観光客のみなさんにとっては気軽に間近にサケたちが見られる絶好のスポットになっているのですから。
なぜ自然産卵ができない場所から稚魚を放流するのでしょうか?
それは湖内をめぐる他の魚との漁との、棲み分けがあり、その結果、湾にある小さなS川にふ化場が古来より設置されているからだとも云われています。
生まれた川の水の匂いをたどって数千キロも旅をして、運よく、自然産卵できるよう遡上できたのに、肝心の産卵ができず、ただただ放流地点の土管の前で必死に生きもがいている姿には、悲しみの気持ちで一杯になります。
やがてとうとう力尽きて死んでしまったサケたちは、ヒトの手によって処分されます。それは単に自然環境のためではなく、見た目や異臭の問題もあることでしょう。近郊の家畜飼料工場などへと運ばれてゆきます。
ヒトの手で生まれたサケたちが、ヒトの手によって物質循環されてゆくというのも、もしかすると自然の摂理なのかも知れません。それは作物や家畜と同じ立ち位置なのかも知れませんが、そうでしょうか。ここでは「ありがとう」や「いただきます」といえるでしょうか。
サケは誰のもの?と、湖の方から声が聞こえてきそうです。
ヒトとサケの関係は、この先どのように変わるのでしょう。
ここのサケたちのほとんどは、やがて来るワシたちのいのちにもつながりません。
その数、ざっとおよそ3000匹と聞きました。
サケが死んだ。故郷で死んだ。産卵できずに死んだ。
ほかの地域でもこのような悲惨なことがあるでしょうか?
いまでも続いているのでしょうか?
累々と性(さが)が織りなす物語。
感受とは異なる現実問題。
その物語は殉難といっていいでしょう。
ワシたちがやってきた。
冬に流氷に乗ってやってくるというのは、観光イメージからの誤りで、ワシたちは自分の翼で、繁殖のため越夏したロシア極東部からやってきます。そのピークは11月頃です。
ひとつの止まり木に群れになっている場合もあります。
まるで、何かがぶらさがっているようです。
このような木を、「わしのなる木」と呼びます。
よく言い当てた言葉ですね。
渡ってくるオオワシ、オジロワシたちのことを、まとめて「海ワシ」と呼びます。海岸や河口、結氷した湖付近にいるため、そう呼ばれるのかも知れません。
1980年代、知床羅臼町が冬のスケトウダラ漁で隆盛していた時代には、そのおこぼれの獲物を狙って海ワシたちが集結し、世界的に見ても一大越冬地と呼ばれました。
こちらはオオワシ、翼を広げると2m50cmにもなる日本最大のワシです。
1970(昭和45)年、国の天然記念物に指定されました。
色彩は、嘴と後肢が黄色く、肩と尾羽が白くて立派です。
越冬している時期には、長距離の移動することがあります。それは越冬のはじめにはサケマスの死がいを求めて河川間を移動し、厳冬期には人間の漁のおこぼれやゴミ捨て場などを求めるためです。山林で息絶えたエゾシカの死がいなどを狙うこともあります。
紋別に「鴻之舞(こうのまい)」という過去に国内最大生産量を誇った金山があった地があります。
その地名はアイヌ語で「クオノマイ」(仕掛け弓のある処)で、その当て字には、命名者になる吉田久太郎氏が、鴻之舞と発案しました。その意味するところは、"鴻(おおとり)が辺りを威嚇して今にも飛び立とうとする様"を書いたと云われています。その鴻とは、やはり、このオオワシのことではないだろうか?と、ひそかに思っています。
昭和63年まで函館と網走を結んでいた国鉄特急おおとりの、おおとりの元は何でしょうか。
当時のヘッドマークを見ると、頭が小さくてどうもワシには見えないような感じがします。
さて、こちらは、オジロワシです。
こちらも、1970(昭和45)年、国の天然記念物に指定されています。
翼を広げると、2m40cm、嘴と後肢がレモンイエロー色で尾羽が白いです。
アイヌ語では、オンネ・イ(老大なる・もの)と呼ぶらしいですが、一説によると、この海ワシたちには名前をつけていなかったとも云われています。
冬に北海道へ飛来するだけでなく、本州北部にまで越冬に向かうことも確認されています。
その逆となる、繁殖のために北へ還らずに、そのまま北海道で越夏、繁殖する個体もいます。
オオワシよりも誰も所有していない新しい獲物を食べることが多く、地上での餌取り合戦はオオワシよりも優位で強いようです。海ワシたちは餌取り合戦はするものの、互いに傷つけあうことまではしません。それが、たとえ未成鳥であっても。
弱肉強食で競争の世界ではあるのでしょうけれども、獲物が乏しいながら群れ全体で越冬しているようです。
アメリカの国鳥・ハクトウワシとの近縁種とも呼ばれているためか、根拠はないのですが、老齢のワシは頭部が真白くなってゆくような気がします。白髪へ、人間もまた同じでしょうか。
寿命は20年を超えることもあると云いますから、たいへん長生きな鳥だと思います。
月を見ています。
というのはウソで、結氷した湖上の何かを狙っています。海ワシたちの食事は、朝夕の時間帯が多く、昼間や夜間は、止まり木でじっとしています。視界の利く高いところで、じっとしています。
羽毛に包まれているとはいえ、冷たい風に吹かれ、寒くはないでしょうか。
こちらは、つがいです。右がオスで、左がメスです。
まるで高砂の席にいるように夫婦の初々しさ、そして貫禄があります。
つがいは、他のワシたちとは少し距離を置いて仲良くしていることが多いです。
北海道で越冬するオジロワシはおよそ1700羽で、そのうちつがいはおよそ150組との報告があります。つがいが北海道で確認されたのは、1954(昭和29)年が最初だと云います。
つがいを見つけたときは、何だか妙に、うきうきとうれしくなります。
2月になると求愛やディスプレイがはじまり、早春になると営巣、抱卵をします。
よって、越夏、繁殖する個体がいるのです。
とある吹雪の日。歩いて観察をしている途中、大橋の下から飛び行く海ワシを見つけて、シャッターを切りました。
まるで油絵のような写真になりました。
吹雪のおかげです。
今では高ズームのデジタルカメラが比較的入手しやすくなりました。
海ワシたちの姿を追いかけていたあの頃の冬には、望遠レンズさえ持っていませんでした。
今のそうしたカメラがあったら素敵だったろうなと思います。
絵になる観光用のような、流氷に乗る海ワシたちの姿も捉えられたでしょうし、精悍に鋭く獲物をつつく嘴の光景なども捉えられたかも知れません。
ここに掲載した海ワシの写真たちは、撮影画像を拡大して500pxに切り取ったものです。よってフルサイズではなく、現像してもLサイズが限界だろうと思います。
海ワシたちを見つけることは、眼が慣れると、意外と容易いことです。
もし、自分が海ワシだったら、いま、どこに獲物がいるかな?川かな、湖上かな、海岸かな?、どこが見晴らし良いかな?と、想像することも楽しいものです。
漁業、その人間のおこぼれなどに依存している地もあります。
ぜひとも、その野生に生きる雄姿を一目見てもらいたいです。
獲物を中心とした仲間たち、冬を生き抜く海ワシたちの物語が、そこにはあります。
(参考資料:BIRDER 2007年12月号 冬の猛禽特集)
雪なんていうと、北国の人たちにとって、邪魔なものにしか思えないのかも知れません。
地上のあらゆるものを冷たくしますし、あらゆるもの、何もかもに降り積もってしまいます。
生活をより不便にし、陰鬱な気持ちにもさせられてしまいます。
その雪と北国ではおよそ5ヶ月もの間、付き合わねばなりません。
初雪は、積もることはあっても、融けない根雪になることは、そんなにありません。
降雪が何回かあって、しばらく経ってからピシっとした根雪となってゆきます。
根雪になってしまえば、諦めに似た心も決まるのですが、それまでは憂鬱です。
雪氷学の世界では、雪は、空からの便りとも呼ばれ、その結晶に同じモノはふたつとないと云います。氷河の層からは、過去の気候変動をも推し量れるともいいます。
学問と生活では違うかも知れませんね。
雪が降ると、子どもの頃には、ただただ、わくわくしたものですから。
子どもの頃の雪遊びといえば、雪合戦、かまくら掘り、スキー、ミニスキー、ソリなどいろいろありました。手袋は母が毛糸で縫ってくれた、ミトン状のもの。片方をなくさないように、紐で繋がれていました。雪遊びをすると、手袋にたくさんの氷玉ができたものです。
いろいろな雪といえば、新沼謙治さんの津軽恋女の歌詞を思い出します。
降り積もる雪、雪、雪、また雪よ
津軽には七つの雪が降るとか
こな雪、つぶ雪、わた雪、ざらめ雪、みず雪、かた雪、春待つ氷雪
雪が降る様と、降り積もった雪の様の2つの状態が含まれているように思います。
初雪、新雪、細雪、淡雪、ぼたん雪、くされ雪、なごり雪などもありますね。きっと、まだ他にもありますよね?
以前、アラスカのイヌイットの方たちは、雪のボキャブラリーが多いと聞いたことがあります。その数、100あるとも。そんなにあるの?と思います。
実際は、どうなのでしょう。
宮岡伯人著「エスキモー 極北の文化誌」によれば、カナダ・エスキモーの雪を指す言葉として、「語幹としての雪」は20種強(ユピック語として16種)の説を支持しています。
さらにその中でも、別の語からの借用や変形によって生まれた「派生語幹」が多くあることを指摘し、「あくまで元から『雪』だけを表していると考えられる語幹」として6種を挙げています。
「降雪=カニク」、「溶かして水にする雪=アニウ」、「積雪=アプト」、「きめ細かな雪=プカク」、「吹雪=ペエヘトク」、「切り出した雪塊=アウヴェク」の6種です。
なお、これはカナダ・エスキモー語であり、ユピック語(西南アラスカのエスキモー)ではこのうち4種が(やや異なる発音ながら)見られると記しています。
ボアズの挙げたものは「カニク」と「アプト」は共通ですが、残り2つは含まれていません。おそらく、除かれた「派生語幹」に含まれる語か、派生語などだったということでしょう。
こうしてみると、「甘く見積もっても16種ないし20種強」、「純粋に雪のみを指す語幹は6種ないし4種」が実際に確認できる数、という結論になるでしょう。
語幹の「積雪=アプト」は、網走市の4条通りアーケード商店街の愛称になってもいますね。
(紋別市 旧上藻別駅逓に50年以上暮らしたKおばあさんの横顔)
雪国をふるさとにする人たちにとって、雪は憧憬の景色へと変化するのかも知れません。
雪との闘いがあるのに、雪の不便さを忘れて、都会からふるさとを思うイメージのひとつになります。懐かしさで溢れるのです。それは駅や鉄道などの世界にも似るのかも知れませんね。
ふるさとの雪国で老いてゆく人たちについて、星野道夫著「ノーザンライツ」に次のような言葉があります。
人の一生の中で
歳月もまた
雪のように降り積もり
つらい記憶を
うっすらと覆いながら
過ぎ去った昔を懐かしさへと
美しく浄化させてゆく
もし、そうでなければ
老いてゆくのは
なんと苦しいことだろう
大雪、吹雪など外出が困難な日々が続くことがあります。雪かき(除雪)に追われることもあります。家の中で過ごすことが多くなってくる人たちにとって、食糧を買いだめして、灯油を確保し、お友だちやご近所づきあいもなかなかできなくなったり、心を閉ざしてしまうこともあります。
それほど、冬、ときに雪国は陰鬱であるのかも知れません。
厳しい冬の中に、ある者は美しさを見る。
暗さではなく、光を見ようとする。
それは希望といっていいだろう。
「いいか、ナオコ、これがぼくの短いアドバイスだよ。寒いことが、人の気持ちを暖めるんだ。離れていることが、人と人とを近づけるんだ」
星野道夫著「旅をする木」より
(自身の結婚パーティーで、妻の直子さんに友人のカメラマンがかけた言葉)
文章執筆中
北海道の動物をイメージしたとき、いちばんに挙がるのはキタキツネではないでしょうか?
竹田津実さん原作の本や映画の「子ぎつねヘレン」、倉本創さん脚本のドラマ「北の国から」などでも馴染み深いのではないでしょうか?
このキタキツネ、おそらく北海道観光で遭遇率が一番高い動物のではないか?と思います。
北海道のほぼ全域、特に道東に多く生息しており、アイヌ語では「チロンヌプ(私たちがたくさん殺すもの)または「フレップ(赤いもの)」などと呼ばれ、むかしは毛皮目的で多く捕獲されていたようです。
もともと夜行性ですが、冬には日中でも雪原でよく見つけられます。
キツネにとって、冬は恋の季節でもあります。
冬の森の中をスノーシューで散策しているときに、ふと、遠くに気配を感じました。
キタキツネと目が合ってしまいました。
そのときに撮影した写真を拡大してみますと、顔の一部に雪がついています。
雪の下にいるネズミたちを狙っているのです。とても耳が良いらしいです。
きっと眼も、嗅覚の鼻も良いのでしょうね。
観光地や道路沿いで観光客に食べ物をねだりにやってくる「観光キツネ」が以前より問題となっています。
もともとは道路(側溝やのり面を含む)は、ネズミたちなどの小動物や両生爬虫類が潜んでいたり、それが車に轢かれていたり、夜の車のヘッドライトに飛び込んでくる虫たちなど、エサが比較的捕りやすいのだと思います。
そこへヒトの観光客が「かわいいね、はい、どうぞ」と、ヒトの食べ物を投げ与えてしまうと、次の車からはくれるかな?くれるかな?と繰り返しているうちに、やがて悲しい交通事故に遭ってしまうこともあります。
キタキツネは、エキノコックスという人にも介入する寄生虫の病気も持っています。
北海道の土地に暮らすには、正しい知識と理解が必要なんですね。
この間近のキツネもぼくの車に寄ってきた観光地での写真です。
キツネは眺めるぶんには、とてもかわいいものです。
北海道を代表的するキタキツネを通して、野生動物との共存を考える物語もありそうですね。
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強い北西風により流氷が接岸する直前の高波~鱒浦漁港にて
能取岬から眺める、初めの頃の流氷と知床半島
流氷接岸~鱒浦漁港と斜里岳
流氷アップ スローシャッターで
海を一面に埋め尽くした流氷
知床半島から昇る 厳寒の蜃気楼朝日
流氷明け アイスアルジー
冬、活発に動くリスたちがいます。
北海道に暮らすエゾリスといいます。
シマリスは冬ごもりしていますが、エゾリスは冬でも元気な姿を見ることができます。
エゾリスは樹上や木の周りにいることが多く、木リスとも呼ばれます。
冬の森の木々たちは葉を落とし、また地面は白い雪のため、動き回るエゾリスはとても発見しやすいです。
あらあら、なんだか大切な場所?が見えている写真ですね。
秋のうちに地下に貯えておいたどんぐりなどのエサを探し見つけて食べているのです。
なるべく晴れの日、陽が暖かくなるお昼前後が見頃です。
網走で観察しやすいのは、「こまば木の広場」の森。
散策路は地域の人たちによって除雪されていますし、ここのリスたちにはヒトが餌付けしているので、簡単に近づけます。
ただ、野生動物にエサをを与えるのは、果たしてどうなのでしょうか。
ときおり、考えます。
当地では、運が良ければ、また、食痕のある木(木の根もとの地面に落ちています)さえ見つければ、かわいいエゾモモンガにも出会えることがあります。
楽しきリスたちに会うと、優しい気持ちになります。
気軽な冬の散策です。帽子と手袋をつけて出かけてみては、いかがでしょうか。
きっとホットな心の冬物語がつくれる日になるかと思います。
しっかり冬を越さなければ、しっかり春を感じることはできない。それは不幸と幸せのあり方に少し似ている。
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常呂から眺める能取岬と知床半島
フクジュソウ
能取岬のフクジュソウ
エゾアカガエル(学名 ラナ・ピリカ ラナ=学名でアカガエルの意味、ピリカ=アイヌ語で美しいの意味、
ふきのとう
ミズバショウの森
ギョウジャニンニク(地元ではアイヌネギとも呼びます)
オオバナノエンレイソウ
シマリスと芝桜
倒木更新(とうぼくこうしん)。
寿命や台風などによって倒れた大きな古木「倒木」を礎にして、新しい世代の木が育つことをいいます。
北海道では、トドマツやエゾマツなどの針葉樹の天然林に見られる現象です。
親木から飛んで地面に落ちた種の多くは、なかなか生育できません。
発芽したとしても、すでに周囲に多くの樹木が生育している森林では、笹などもあって十分な太陽光を浴びることができません。
生育できるのは、運良く「倒木」の上に落ちた種。
エゾマツやトドマツは、特に幼木のころ、土壌中のある菌と共生しなくてはならないようです。
「倒木」の上は、草などによる日照不足を緩和できる上に、雑菌も少なくて共生する菌が繁殖できるため、うまく成長することができます。
さらに、朽ち果てた倒木自体が養分を供給してくれて、表面に生えたコケがスポンジ状になって、水分を上手く保ってくれるのです。まるで豊かな苗畑ですね。
こうした木の生まれ変わりのサイクルは、およそ300年といわれています。
(参考:生けるもののふるさとと森林 有澤浩著)
森林の時間と、ヒトの時間には大きな開きがあります。
見えている森林、そしてヒトの眼では見えませんが、地下に張り巡らされた根域でも、木々は互いを助け合っています。
森林生態系は、まるで宇宙のようです。
あっちの時間に合わせて、ゆっくりと悠久な森林のいのちの物語を感じてみましょう。
職場で残業をしていたとき、机の上に置いていた携帯電話が鳴った。イクちゃんからです。
「いま、夕焼けがきれいだよ」
「ありがとう、すぐ見に行くよ」
北国の初夏の日没は遅いのです。
高台の畑まで急いで、一人、車を走らせると、ほんとだ、西の空が妖艶に焼けています。
これは美しい夕焼けです。
イクちゃん、ありがとう。
広くて大きい空がある。
日の出が拝めて、夕陽を見送る、一日のそんな当たり前のことが人の暮らしの上では贅沢なことだと気づきます。そんな空間力に癒されるのです。
北緯44度、森と海と湖に囲まれた北海道オホーツク地方は素晴らしいところです。
四季それぞれの魅力や発見があり、海の幸や野菜をはじめ食べ物も新鮮でおいしく、人たちも温かい、ほんとうに素晴らしいところです。
地元に暮らす人たちや移住者さんにも、そして学生さんや旅行者さんにも、きっと、いつも、たくさんの美しい出会いと感動の物語がつまっています。
未来に向けて持続可能な活力ある地域の「風土」は、外からやってきた人たち(風)と、地元に暮らす人たち(土)が、仲良く融和しあって創り上げるものですからね。
きっと、きっと、そう信じています。
ちっぽけなぼくには知らない地域が、世界中、日本中にたくさんあります。
ぼくの知らないところに、いろいろな地域があります。
事情が許せば、行ってみたい地域も、たくさんあります。
この北海道オホーツク地方が、ぼくにとってかけがえのないように、ぼくの知らない地域も、きっと、かけがえがありません。
そう想いつつ、「チパシリ便り~秋から春へ」は、これでおしまいにします。
いつか、風ひかる夏編も書いてみたいナ~と思います。
長文を最後までご覧いただき、ありがとうございました。
ある夜アラスカの氷河の上で、友人と今にも降っ てきそうな星の下で話をしている。 「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。 例えば、こんな星空や泣けてくるよ うな夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるか?って」「写真を撮るか、もし絵が上手かったらキャンパ スに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな。」「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・ その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」 (星野道夫著 「旅をする木」より)
~チパシリとは~
菊地慶一著「あばしりものがたり」(2012年9月刊)では、網走の語源について、
チパ・シリCipa-sirとは「幣場(ぬさば・祭場)」で帽子岩を指す
チ・パ・シリ「我等が・見つけた土地」
アパ・シリ「入口の・土地」
チパシリ・チパシリと鳥が鳴いた(民話)
4つの説があるとされています。
網走市史上下巻を執筆した田中最勝(故人)さんは幣場の帽子岩の説をとっており、菊地先生もこの説を支持しています。
それは、アイヌが沖へ漁に出るとき、行きと帰りにこの島の祭壇に立ち寄り、漁の祈願をして帰りには漁の感謝を捧げたとされ、アイヌの自然観から考えると、海上に浮かぶカムイ・ワタラ(神・岩)への信仰は当然とされるのではないか?と述べています。よって、この言葉に帽子岩の名称を取り戻してはどうか?と提言されています。
しおさい公園から眺める網走港と帽子岩、流氷観光砕氷船「おーろら号」の姿。
沖合は大流氷原に覆われているため、おーろら号は港内を巡航しています。
本稿の使用カメラ:CanonIXY200a/NikonD70